内容はタイトルほど大仰な事では無いのですが、11月1日より当デイサービスセンターでは、一日の業務終了時に職員が集まって、その日一日の中で自分が行った良い行為または良い気付きについて報告しあう事を始めた。要するに、介護の中で、言葉では表現できない利用者の要望を行動の変化から察することが出来た!と言ったような気付きを報告しあうと言うこと。または、普段とは違った支援をしたら、とても気持ちよく介助させてもらえた!と言う類の報告会である。
この報告会の目的は、とにもかくにも介護職員と言えば気づきの無いうすらトンカチと揶揄されがちであるが、我々としては毎日の介護に全精力を投入して支援にあたっている。でも、反省こそいっぱい出てくるものの、よい事、称賛に値することは、内に秘めてひっそりと自分だけで自分をほめる場面が多い。そんな秘かな喜びを他の職員と共有することで、喜びはさらに大きく、また新たな気付きや発見情報を共有することも可能となり、介護の質の向上に役立つと考えた訳です。
毎日、それ程の気付きは無いかもしれないと思いつつも、毎日、報告会を聞いている中では、結構新たな気付きが発見されている。そして、その結果報告を聞きながら、他の職員の励みにつながっているようにも感じる。まあ、取りあえずは1カ月は様子を見ながら、経過観察をして良ければ次月も継続させていきたいものです。
介護職員というのは、簡単に始めることが出来、無資格でも業務を行うことが可能です。その分、訳分からずに始めた業務に翻弄され悩み自分自身の思いとは違った結果に愕然とし自分自身の人格崩壊までストレスをため込んで、それはそれは、外から見るほど楽な行目では無いのです。私達管理者やフローアリーダーは、そんな負のストレスに侵されることなく、日々の業務を持しする中に学びを摂り入れていける様、そして、掛る負担を最小限に抑えて新人職員達がのびのびと成長出来る様サポートして行かなければいけないと考えています。
私にとって太陽の家で一緒に仕事してくれる人達は大切な仲間です。ひょっとすると利用者様よりも大切かもしれません。(ある意味、これは事実です)そんな大切なスタッフが志半ばにして疲れ果てて退職してしまうことは、事業所にとってとても不幸な話です。僕は、この不幸を根絶し、皆の協力をまとめて提供サービスの向上をめざしていくと同時に、介護職員の生活の基盤の安定に注意を注いでいきたいと思っています。
世界の人口が今年の10月末日に軽く越えてしまった。やはり中国を筆頭に、インドが世界の半数近くの人が生活する実態は変わらない。しかし、これも近い将来、中国の人口増加は止まり、現在2番目に人口過密国のインドが世界のトップに替わると言う予測もある。世界人口の数の問題もされど、この70億の人口の25%が、1日100円弱の金銭で生活を強いられていると言う貧困問題が非常に大きな問題であるようだ。
世界の全ての人間が食べる食事形態をアメリカ的動物性たんぱくを摂るとすれば、世界の総生産量から扶養できる人数を試算すると、わずか25億人分の食事しか供給できないらしい。つまり、世界人口の3人に2人は、ステーキやポテトやハンバーガーとは縁遠い粗食に飢えなければいけないと言う現実が存在する。世界の食糧供給量は、現在の70億人を養うに不足は無いとしているが、供給バランス(配分バランス)に大きな問題を抱えており、先進主要国では飽食を謳歌し、過剰食品や食べ残しの残飯処理に多額の税金を投入しているありさま。その反面、途上国では、1日の三食も満足に口に入らず、栄養素が極端に不足する生活をおくっている。この不公平が世界の70億人の中の25%に存在する現実。私の自宅冷蔵庫からも、消費しきれずに痛んでしまった食品や賞味期限の切れた缶詰などを捨てざるを得ない時が存在する。一昔前なら、米粒一つでもだだくさにすると『目が潰れる」と、祖父母に叱られたものである。しかし、生活が裕福になると同時に、私達の生活から無駄を良し!とする風潮が当たり前に変化してきている。飽食を富の象徴とし、富める者の特権と豪語する錯覚が横行している。
アフリカのタンザニアなど内紛に我が家を追われ、避難民生活を余儀なくされている子供や大人が、国連の唯一の国際援助物資を争いながら奪い合って生活を維持している。子供達は教養を身につけるよりも、その日の生活の糧を求めてゴミ処分場で残飯をあさる。教育は豊かな生活を営む上で重要であり、貧困がゆえに衣料品や靴などの生活用品も満足に購入することが出来ない子どもたちは、医療廃棄物や人体に悪影響を及ぼす危険物が混入するゴミの山を、素足に近い状態で歩き回る。当然、感染症や重篤な疾患、例えばエイズ、肝炎などに罹患する。
貧困は更なる人口増加や出産の低年齢化を促し、それによって働き手の減少、衛生管理の不履行などで幼児や母体までが短命で終わってしまう。そんな負のスパイラル現象に多くの人間が苦慮している。私自身、健康管理を考えると同時に、自分の欲望を何処まで抑えることが出来るかが、そのまま世界的な人口増加に一役も二役も買うことが出来ると思う。飽食の社会。自分だけでも必要分だけで満足できるような質素な生活を目指したい。
先週末の土曜日、この鈴鹿は風も無く穏やかな朝を迎えていた。早朝の景色を眺めながら心地よい朝の空気を体中で味わっていた。何処からともなく聴いたような音が聞こえてくる。
熱気球のバーナーの燃える音。
ふと上空を見上げると西の空に三機の熱気球が飛んでいる。いつぞやのブログにも書いたように、風任せの熱気球の遊泳は、本当に気持ちよさそうである。地上から眺めていても、心地よさが伝わってくる。もちろん、気球を操縦する側にとっては、命がけのフライトであって、一瞬たりとて気の抜けない操縦だとは思うが、そんな緊張の瞬間は地上の私には伝わってこない。それよりも、フワフワと浮かんでは、風の流れに身をゆだねている姿が気持ちよさそう。そして恰好イイ! 僕はそれ程の高所恐怖症ではないが、高い所にあがって下を見ると、何処やら体の一部がすくんでしまうような、妙な感覚に襲われて気持ち悪い。気球にのって、優雅な時間を過ごすことは不可能だと想像するが、それでも、地上から眺めている分には、とてもう優雅で楽しげである。今日一日、楽しくなりそうな・・・そんな晴れ晴れとした気持ちにさせてくれた。
写真の掲載順が違っているので申し訳ないが、上から順に地上に降りた気球を関係者が片づけようとしている写真、地上に降り立った瞬間の写真、空を悠々と浮かんでいる写真である。恐らく鈴鹿在住のバルーン・チームだろうが、こんな優雅なフライト。また、見せてくれると嬉しい!
面白い話を仕入れた。
うちのケアマネが、職員の肌の調子を見て、体調や環境の変化を読み取ると豪語していた。僕は、話途中で会話を聞いたので、詳しくは分からないが、彼女いわく、観察眼の訓練になるから、相手をよく見て普段と違う個所を探してみるとよい!と言う。
なるほど・・・確かに一理ある。相手を観察することは高齢者介護には必要であり、その人の体調の変化を鋭く見抜く力は必要であるかもしれないね。と、関心しながら話を聞いていた。
彼女は、確かに人の気分を読み取ることに長けている。時として僕の体調不良も指摘する時もある。しかし、相手の調子を読み取ることは自由にやって良いが、それを相手に伝えることには意義がある。特に自分では何ともしようのない体調不良を指摘されてしまうと、その分だけ言われた本人は悩み、動揺する場面もある。相手によりけりかもしれないが、その言える相手と言えない相手を判断することも必要である。
千里眼(観察眼)ってのは、時と場合、使いようによってはとても強烈な武器になる事も理解しなければいけない。
しかし、読売巨人軍・・・情けないね!チャンスを生かすことが出来なくて今年のゲームは昨日のヤクルト戦で終了してしまった。今年は主力選手に故障や怪我が多く、打率からみても低レベルな打撃率で打てない、守れない、最悪の年となった気がする。応援する側の熱い思いも届かずに、とうとう敗退。残念至極である。しかし、中日が勝てば、それこそバーゲンセールなどで恩恵を被る事が出来る訳で、それこそ地元球団を応援すべきかもしれない。
今からさかのぼる事50年程度前の映画、当然カラー映像になる前の映画って、今のCGが溢れる映画全盛時代の今では、逆に新鮮なイメージさえ感じることがある。特にアメリカ映画の白黒時代は、今観ても感動出来る対策が多い。大半をスタジオのセットで撮影はしているものの、出来あがりはカラーCGでおまけに3D映像よりも真実味が強く表現されているように感じる。3D映像の代表作として「アバター」も面白い映画だったが、少し現実離れしすぎていて泣けない、同調できない映画だった。それに比べて「怒りの葡萄」や「アラバマ物語」などの古い映画を観賞する時、映画の主人公に同調し、同じような悲しみ、苦しみを共有できるように感じる。この当時の映画は主に人種差別や貧困層の苦悩と現実的な生活苦の描写が多い。
この時代がハリウッドの黄金時代として反映するわけで、日本にも進出したテーマパークであるユニバーサル・スタジオの元祖であるアメリカ合衆国のロサンゼルスにあるユニバーサル・スタジオは、実際に撮影に使った広大な敷地に設置されたスタジオを使って観光客を招き入れたスタジオツアーが切っ掛けとなったテーマパークである。私自身もロスのユニバーサル・スタジオには、複数回行ったことがあるが、白黒映画発祥の地として興味深いテーマパークである。近代の映画をテーマにしたパビリオンは、それなりに最新の技術と演出や特殊効果を多用して楽しめるのだが、やはり回数訪れると多少の飽きがくるのはいがめ無い。 それと同様、1970年代の今では時代遅れを感じる映画よりは、それより20年前の白黒映画の方が新鮮さを感じるってのは何故なんだろう・・・?