私の所属する三重県地域密着型サービス協議会の主催する研修に時々、講師として参加する機会が多いのですが、昨日は認知症介護に不慣れな新人さん(実際の多くは2年、3年の歴を持つ人も多かった)を相手に、「認知症高齢者への接遇」について一時間半の研修を行った。一時間半話をする事になんら苦痛も緊張も無いけれど、一番嫌なのが自分の事業所職員が一番前の席に陣取って聴かれる時。 なんだかお尻がムズムズすると言うか、彼らは僕の普段の姿を知っているだけに、別の意味の緊張感が体中に走る。 僕としては、彼らが何と感じようが、それはそれと割り切って対応しているが、何処か心の隅に、自分の講義内容にやましいところがあるのか?それとも、罪悪感か?・・・・・まあ、嫌な汗をかく!と言うところだろうか・・・・・
兎に角、それはそれ、一時間半をこなして、自分の責務を完了させたのです。毎回、僕が研修を担当する時に思う事は、会場にいる参加者全員が、色々な事を感じ、考えてもらえるような研修にしたいと願っているわけなんです。研修会場の最前列に立って、参加者の顔を見ながら講義を行うと、結構、参加者の反応がみえてしまうのです、まだまだ未熟な自分ですから、中には数名の人が目を閉じてしまう状況も見えます。「彼は、俺の話に興味をもってないな~」と見受けられる受講者もいます。聞きたくない奴は帰れ!と叫びつつも、そんな言葉に正直に反応して帰るものもいない。中途半端と言えば中途半端だが、僕の存在がそこまで思われていないと言う証かもしれない・・・としょぼくれる。
僕の恩師に田原教授と言う先生がいました。今は、大学を去られて本業の医学を突き詰めて見えるのですが、その教授の授業を受けている時に、ある生徒が立ち上がり、先生の独断的指導を批判したことがあります。その時に、その教授が言った言葉が非常に力強く関心した事があります。先生は、その生徒に講義を受ける側の姿勢と教える側の姿勢を批判することはひかえなさい!と叱りました。私達生徒は、その時に受講する先生の考え方、教育方針まで立ち入って批判することは、いくら自由な世の中であろうと生徒の側は一歩下がって教えを請うべきだと考えています。そして、自分の考え方と格差がある場合は、それはそれなりに受け入れて、自分の考え方とは違った考え方として整理すれば良いと考えています。社会には単一的思考だけではなく、いろいろな考え方や見方があって当然です。たとえそれが、マイナスの考え方であったとしても自分の中で消化する力が求められているのではないでしょうか?と僕は考えるのです。それと、前に書いたように「受講したくないものは出ていけ!と言った女性教授の言葉に、実際に教室を出た生徒もいた事を経験しています。この教授はスエーデンの福祉を研究している先生で比較論を担当してました。とっても厳しい先生で、僕はそれなりに好きなタイプの講師です。そんな教授の講義のしょっぱなから、自分の想像と現実の違いに即、反応して席を立つと言うのも如何な物か?と首をかしげたくなります。まあ、これが大学と言うものかもしれませんが、あまりにも頭の固い生徒が居ることに疑問を持ちます。何のために学ぼうとしているのか、どう言う観点で講義をとらえ受講しているのか・・・・?これが、一般的な社会の縮図として、私達は受け入れなければいけないのかもしれませんが、そう考えると生きると言う事は難しいものですね!
しかし、僕は100%とは言わずとも、受講者の大半が聴き入ってくれるような講義を目指したいと考えています。途中で眠くなるような繰り返しの言葉は排除し、常に新鮮な感覚で聴いてもらえるような情報を織り交ぜて研修を進めたいと考えています。今回の研修では、パワーポイントを使って講義を行いましたが、この資料作りの前に自分なりの考えと講義の道筋を文章にまとめてから資料作りに着手しました。文章と言っても、A4用紙に4枚程度の概略をまとめ、その流れに従ってパワーポイント資料を作成しました。ここで、僕なりのミスがあったのですが、挿絵まで気が回り切らなかった点です。挿絵と言うのは、影の協力者的存在で、その挿絵によって受講者の想像や連想を促し、くだらない話にも一切れの清涼剤のよな役目を果たすのです。そんな挿絵をネットで探しながら、利用させて頂いたのですが、その挿絵検索に時間が不足気味で、適切な物を入れることが出来なかったのです。これは、次回の研修には十分な判然と共に改善を要する点となりました。
また、講義のスピードです。元来、僕は話に熱が入るにつれ早口になってしまうのですが、今回の研修でも口角に泡、機関銃のごとく話を進めてしまった点が反省されます。もう少し、十分な間をとらないと、聴いている側も聞きづらい。そう反省してます。まあ、僕にとって研修を担当すると言う事は、自分の熱意、熱い思いを広げていくためのツールと考えています。そして、研修を行いながら、その準備段階で自分なりの学びも積み重ねています。言ってみれば、他者に研修を実施しながら自分自身も勉強をさせてもらっていると言う一石二鳥な、学びの場として活用していると言っても過言ではないでしょう。まあ、いずれにせよ、さらなる発展性を求めて自分を磨いていくことに変わりは無いものの、講義を行った当日の夜は、その日の反省事項が頭の中をめぐりめぐって熟睡できない夜を過ごすのです、研修を終えてギルティーコンシャスに悩まされる講師なんているのかね~って、自分の小ささに笑えてきます。
今日、昼ご飯を食べながら職員と話をしていた。
「ねえ・・・TPPは賛成?それとも反対?」と問いかける私
「・・・・・?」と職員。
「・・・・・消費税の話ですか・・・?」
まったく質問内容が通じてない。もちろん、女性だから日本の時事に関して暗くとも仕方ないかもしれないが、少し残念な気がする。昨日、オランダでは、1973年のオイルショック以降、電力供給を原子力に頼る機運がおこったが、それを阻止した運動家が女性であると言う事を報じていた。国の施策を阻止したと聞くと、ゲバ棒にヘルメットまたは国旗を振りかざして民衆の先頭に立つジャンヌ・ダルクのような女性を想像するが、オランダのそれは、そんな過激な活動家ではなく単に一女学生であったのです。自分の知らない事を充分に納得がいくまで国民全体で学ぶ期間を設けてほしいと言う要望が発端となり、政府を動かしたようです。そして、オランダは原発に頼らずに電力供給を風力発電にシフトしたということでした。
この国に暮らす民が、国の施策に視線を向けずに興味も示さない姿は恐ろしい。どう言う方向に祖国が向っているのか考えることもなく、全てを他人任せにすることは、とても恐ろしいと思いませんか?僕は、自分の暮らす国に誇りを持ちたいし、他国の友人たちにも自慢したい。でも今の日本を自慢出来る点って無いに等しい。友人たちは、こぞって日本の将来を案ずる意見が多い。これでは、日本人がグローバル社会で物おじなく発言できるわけがない。こんな世の中は、政治家にとっては非常に都合が良い。政治家に都合が良いと言うより、公務員(官僚)に都合が良い。何でも自分達の少数意見が抵抗も無く採用される。我々国民は、決定された事項にただ単に黙って従うだけ・・・・恐ろしいでしょう!
だから、もう少し、その日のニュースくらいは確認して、今の日本の現状くらいは見ておこうよ!と言いたい。
今、日本政府の中だけではなく国を挙げて大騒ぎな課題として、環太平洋経済連携協定に参加するか否かの問題である。色々な意見が飛び交う中、農業を中心にして自民党、一部の民主党、共産党まで巻き込んでの大反対運動が起こっている。ニュースで見る限り、野田総理のTPP参加を前提としたOPECでの参加表明に関して、政治判断を実施すると言うが、政治判断にはかなりの犠牲または代償の支払いがありそうだ。僕は、この関連ニュースを見るたびに、江戸時代に鎖国を行い、世界との門戸を閉じた幕府を連想してしまう。
鎖国によって海外との行き来を断ち切ったことから、日本に欧米文化の侵入は制限された。鎖国と言いながらも一部の武将には、長崎の出島やオランダ商館を通じて、ヨーロッパの商品や文化は断片的には受け入れていたようだが、一般市民への浸透には程遠い程度であった。当時のオランダ商館日記が現存しており、その記録からうかがい知れるのは、本当に一部の武将が自分自身の物質欲を満たすための商い程度のやり取りであったようで、これでは文明開化には程遠い知識しか得られない状態だったようである。
このTPPを推進するのは、日本の工業関係企業であり、反対派は農業や林業などの業界である。TPPから関税ゼロにむけて安い海外産穀物や食材が輸入されれば、日本の穀物生産業者は廃業の煽りを受けることになるのが主な理由であるようだ。逆に工業系企業にとっては、関税が撤廃されれば、その分、海外での販売競争に有利にはたらくわけで、諸手をあげて賛成というスタンスは理解できる。
TPPに参加することに反対か、関税ゼロに反対かと聞かれれば、僕の意見は「賛成」と言いたい。その理由は、今の社会を考える時、世界はインターネットを中心にグローバル化している事は言うまでもなく、その中で日本国内だけをターゲットに生き残りをかけて商いする姿勢から、さらに販売商品、生産品に磨きをかけ、品種改良や良質な商品の提供など、今以上の付加価値をつけて世界をターゲットに商いを展開すべきである。関税撤廃されれば、当然、安い海外商品が流入する。一部の日本人も、低価格につられて輸入品へ購買力をシフトする者もでてくるだろう。また、とっつあんかっちゃんで細々と経営を継続している農家は、農業生産では生活が成り立たなくなることは必至である。もう、すでに日本の農業は、TPPに関係なくとも、そこまできている。小規模農業は大規模農業法人に吸収され、高額な農業機材では採算が取れないコメ作り農家は、高齢化も後押しする形となり耕作地の放棄に突き進んでいる。日本の食物自給率は40%を切った。6割強を世界に頼って今の生活を維持している。
良いモノは高くても買いたい!そう世界に思わせる商品の開発や生産。世界が変わろうとしている時代に、いつまでも保護主義を貫きとおし、気付いた時には日本は世界の蚊帳の外。僕はタイ米もカリフォルニア米も好きだ。インドの米もカレーにかけて食べるにはちょうど適した堅さで美味しい。それでも、普段の食生活には美味しい日本のコメを食いたい。ほとんどの日本人が自由に自分の主義主張に従ってチョイスできる社会を構築して、海外との交流を増す方が僕は正しい選択のような気がする。
対 認知症高齢者ってなんだ?
いやいや、別に認知症高齢者を敵に回そうと言う考えでは無い。僕は、認知症の高齢者との接点を介護する側の職員が、どのように理解し、どのように考えて接したら良いか?そんな日々の迷いに際して、このタイトルをつけてみた。
ご存じのように、認知症ってのは脳の器質変化によってもたらされる記憶の障害や、精神症状に支障をきたす状態を言う訳だが、そのBPSDと言われる周辺症状への対応には、それなりの専門知識と経験が必要とされる。もちろん、介護職は資格が無くても業務を行う事は出来る。だからと言って素人の訳分からずな介護で良いのかと言えば、そんな事はあり得ない。要するに、介護を志してこの道に入るや否や、専門職としての対応を求められるのであるから職員にとっては寝耳に水。軽い気持ち(本人にとっては、それ程軽い気持ちではないだろうが・・・)で面接し、採用されると同時に専門性を要求されるのは、少々(?)の戸惑いを感じる事だろう。
本来ならば、施設での採用が決まり、実際に業務に就く前に最低でも1カ月程度の初心者研修を行うことが望ましい。ただ、小規模施設程、一人の人員の担う労働量は大きい。つまり、一人の退職者の穴埋めは、出来る限り早く。出来る限り空白期間を少なくしたいと言う理論が経営者側に働くのである。当然、初心者研修は中途半端、超ハイスピードで必要最低限の事項だけを伝達し、後はフロアー長または現場の管理者任せとなりがちなのが現実である。こんな状態で、介護の質の向上なんて望めっこない! これも小規模ゆえのジレンマか・・・?!
では、この状態をどう改善するのか?それは単純明快、職員の定着率を向上させることに尽きると思う。職員がその職場に定着すると言う事は、そこに遣り甲斐を見いだせなければ定着はしない。経済的な理由でも定着率は変動する。出来れば、十分な給料を支給出来ればよいわけだが、ここだけの話、人間の欲望は尽きることがなく、給料の額と欲望の充足度は必ずしも満たされる境界に到達しないのである。だから給料の額だけが、職員を定着させることが出来るとは言い難い。そこに遣り甲斐や良好な人間関係が存在しなければ、居心地の良い職場とは言えないのかもしれない。
さて、取りあえず、職員の定着が成功した場合。管理者は何をすべきか?介護の質の向上?売り上げの増加・・・・・?僕は、そのいずれも大事とは思うが、それよりも職員を育てること。それに尽きると考えている。職員を一人前にして、何処の施設でも欲しくなるような介護職に育て上げる。全ては、ここに尽きる。そう考えている。その為には、管理者は心は温かく、冷静な頭で客観的に自分の行っている事業を見つめる必要がある。職員との和を訴える管理者もいるが、職員の良き理解者でありながらも、ある意味厳しい「師」となりえなければ意味がない。自分を超える職員を育てること。
右も左もわからい初心者の職員さんたち。初心者を理由に不出来な介護は許してもらえないのが現実だ!相手は高齢者。それ程悠長なことは言っていられない。なんせ余生は長くは残っていない。皆が育ってくるのを5年も10年も待っていられない。そう考えてもらえれば、皆さんの介護職の責任はきっと、今よりも重くなるはずである。介護の仕事は重いものだ!人間の命や人生を左右する業務だ!そんな甘ちゃんな言い訳が許されるはずがないんだ!
と、今回のブログは厳しいかもしれないが、高齢者の介護。特に認知症高齢者介護の現場に伝えたい。(これは、うちのグループホームの職員に向けてだけではなく、デイサービスの職員にも同様な事を伝えたいと願って書いた文章です)
アメリカ合衆国の高齢者の現状は、非常に厳しい社会保障の枠組みの中で袋小路的困窮が蔓延しているようである。アメリカ合衆国って国は、国土面積が広く、人口も日本の倍、2億を超える人間が生活している国である。連邦政府が概略的施策は実施しながらも、細かな実際の行政は州政府が行っている、日本とは根本的に行政に運営方法が根本から違う。そんなアメリカ合衆国では、年金支給直以前の年代の国民が経済的にも生活環境の面でも疲弊している。疲弊と言うより、生活困窮に近い状態に陥っている。元来、日本のように国民皆保険、皆年金制度を採用していない国。全ての国民の老後が完全に保証されている制度は発達していない現状が、今の世界的な経済苦境の社会情勢に、アメリカ合衆国における弱者へのしわ寄せが大きく問題化していると言うのが現状なようである。 日本で言う団塊の世代と言われる世代をアメリカでは、『ベビーブーマー」と呼んでいる。年金受給まで数年を残し、それでいて就労先企業から肩たたきにあい、職を失っていく高齢者予備軍が、問題の渦中に存在する。アメリカ合衆国では完全失業率が9%を超えて、その失業率に対する手立ても打てない状況に、ニューヨーク等大都市を中心に99%の貧困層をスローガンにデモが続いている。2億の1%だけが富を得て、それ以外の99%が経済的困窮者として生活する現状に不満を訴えている。
アメリカンドリームを目指し、その人の努力次第によっては大きな成功をもたらす自由の国、アメリカ合衆国も今では国民の10に一人は失業している。人生は競争である。そんな競争社会に生き残る事が出来ない落伍者が99%だ!と言うスローガンは、そのままを鵜呑みにして、大げさに騒ぐ、暴動に結び付ける短絡性は兎も角として、実際問題として年金受給直前に職を失い、生活苦におちいる現実は生きる意欲を失っても仕方のない厳しい現実が存在する。日本の社会では、まだここまでの閉塞感は感じられない。閉塞感を感じられないのではなく、その危機感を感じる機能がマヒしているのか?いずれにせよ、日本の状況も、今のアメリカが直面している現状と同じ状況が近い将来に日本の社会を襲う可能性は大きい。
少子高齢社会となって、おまけに生活保護受給者の増加や無年金者などの増加によって、社会構やシステム自体が崩壊しつつある今、行政だけではなく国民自身が自分たちの老後を真剣に考えていく時代が到来しているように思う。