今日、夕方に時間を見つけて美容院へ行ってきた。僕の場合、髪が短いので仕上げまで1時間はかからない。早ければ30分ほどで終了してしまう。まあ、カットに掛る時間が問題なのではなく、先にカットを終えたお客さん(常連のお客様と思うが)が、帰りがけに「良い年を迎えてください!」と言って店を後にした。
う~ん、そんな時期なんだ!と感心してしまう。まだまだ震えあがるような寒さを感じてない為か、それともクリスマスを終えてない気分からか、そんな時期と意識できない自分が居た。
お正月まで一カ月を切った。次にカットに来るのは年明けか・・・??(僕は、もう一度、年内にカットしてもらわないと、短髪ゆえに、少し伸びてもボサボサ感が生じる) 月日のたつのは早いものだ!と叫びながらも、正月がそこまで近くに来ているとは思いもしなかった・・・・。
日増しに、このような年末のご挨拶が聞こえてくるのも、あと数週間内。そろそろ年賀状の準備もしなければいけない。そう考えると、心忙しくなってくる気がする。
この春の大震災の影響は今でも大きなひずみを残している。と言っても、地殻にひずみ、といったものではない。つまり、あまりの大災害に日本国民の全てが恐怖におののき、次は我が身とばかりに、皆が将来起こりえる大震災に対して、それぞれに対応策を準備しているようなのだ。実は、僕も、うちの施設用に飲料水の備蓄を購入するつもりで、今日はネット通販で探し求めていたんだ。どうせ、備蓄するなら消費期限の長いもの。長期保存が可能な物が良い。だから、長期保存水でネットショッピングを探しまわること一時間。出るわ出るわ! ものすごい数の販売元が検索ヒットする。が、しかしだ! その全てに「売り切れ」の文字。どうなってんだ??なんで売り切れなんだ!震災直後ならともかく、あれから9カ月も経過して、何で今でも売り切れなんだ!
そう言えば、震災後のヘルメットの類、防災頭巾や懐中電灯、乾電池の防災グッズの一切が品切れの時が続いていた。しかし、防災ずきんなどは、すでに入手済み。乾電池も市場に十分ならんでいるし、好きなだけ購入できる状態に戻ってる。しかし、水だけは、そんな訳にはいかない様である。もっとも、値段を言わなければ在庫は存在する。しかし、わざわざ倍の値段を払ってまで備蓄を準備する気にもならない。
なかなかうまくいかないのが人生なんですね!きっと!
もう今となっては、過去の出来事として記憶の隅に追いやられた安保闘争。その当時、日本の社会は猫も杓子も日米安保闘争で湧き立っていた時代である。海外ではベトナム戦争の真っただ中、同年代のアメリカ人の若者たちが、毎日戦争の犠牲者となっていた時代である。新聞やテレビのニュースでも、毎日、学生運動隊と警察機動隊との衝突の報道が伝わってきていた。あの当時は、一部の学生の中でも過激派と言われる人達が、公安当局との武力闘争に奔走していた時代である。その多くは、地下組織として、一般社会の中では普通の生活をしながら、夜な夜な自分たちの主義を通さんばかりに、デモ行進したり街頭演説したり、また時には、活動を制限しようとする公安当局と前面衝突し、火炎瓶やゲバ棒、投石などで死闘を繰り返していた。
私達の年代は、その当時まだ年若く、実際にデモ行進に参加したり、火炎瓶を投げたりと言う行動には出ることは無かった。もちろん、先輩達のように日本を変える為にがちがちに固められた独特のイデオロギーを基に理論武装した猛者には、まだまだ若すぎて仲間には入れてもらえない状態であることも事実であった。この当時、僕の憧れの先輩も、国立の某有名大学に通いながら、うらぶれた横町の飲み屋街の赤ちょうちんで、酒をあおりながら僚友たちと激論を繰り返していた事を覚えている。あの当時の先輩は熱く、燃えたぎるような熱意を持って話し合っていた。と言うより、相手との言葉の応酬を繰り返し、熱い自分に快感を感じていたようにもみえる。その反面、社会には、このような場面を億劫がり面倒なことから遠ざけるような考え方もあった。それらを三無主義と言っては、先輩方のやり玉に挙がっていたわけであるが、その三無主義とは、無気力、無関心、無責任。そんな人も、その時代に存在した。
そんな熱い学生たちの時代も、一部の超過激派と言われる者たちのテロ行為によって、組織自体、そのイデオロギー自体に内部分裂が起き始め、次第しだいに国民全体の意識から一部の過激論者のたわごとに変化していった。時代は代わり、今では個人情報の漏えいに神経をとがらせ、学校教育現場における体罰の禁止や学生の人格尊重などの思想によって、昔のような締め付けて統制する管理社会から自由社会へと変貌していった。個人が尊重され、権利と自由思想が勝手に独り歩き。犯罪に手を染めない限り、全てが自由な国にと変わっていくわけである。
先日、テレビニュースで紹介されていた、現代のカラオケは一人で楽しめるような小さな個室にヘッドフォンを着けて楽しめるようになっているらしい。また、ボーリングも他人に見られない様、個々のレーンがパーテイションによって囲われ、他者から見えないようになっているところもあるような報道がされていた。今の若者が幼少のころからデジタル社会にとっぷりとつかって育てられ、屋外で近所の悪ガキと一緒に遊ぶ事を止めてしまい、コンピュータゲームが唯一の遊び相手となって、他者との交流が苦手な若者が多く育ってきている。個人のプライバシーを尊重するあまりに、ボーリングまで顔を隠して、誰にも見られない様にゲームを進める。カラオケで歌う為に、まずはプライベートな空間で一人で歌を練習してから皆とカラオケに行く。近頃の人間の思考回路はとても複雑になって、70年安保の時代に青春を過ごしてきた自分たちからは理解し難い。
私達の子供の頃は、教師による体罰もえこひいきもあった。同級生やクラスメイトのいじめ(?・・・・その当時はいじめとは思っていなかった。)も派閥もあった。喧嘩は日常茶飯事、女の子のスカートめくりや悪戯もいっぱいあった。もちろん、怪我も多かった。あの時代は、今とは違った子供社会があった。泣いたり笑ったり、嫌な思いをしたこともあったが、今では、その頃の同級生を懐かしく思い、たまに街で出会った時には昔話に花が咲く。子供社会の中で優劣を体験し、競争し、負けることも勝つことも、妥協することも学び、それらの体験を肥しにして今に至っている。今の自分が決して素晴らしい人間ではないが、自分なりに今の子供たちの持ってないモノを持っている自負心は感じている。
少子高齢社会の今、子供は極端に大切に育てられ、危険というモノを一切排除したなかで育てようとしている。英才教育を施し、他の者よりも良い高校、良い大学を目指し、将来への安定路線をひこうとする親。確かに高等教育は受けているが気付きの無い若者が多くなっている。無気力、無関心、無責任な子供達である。そんな子供たちに安保闘争を戦った人達が認知症高齢者となって介護を受ける時代となっていくのである。・・・・・どうですか?みなさん!
会場のレストランの写真です。
今月17日の土曜日は、太陽の家全体の忘年会を行います。ただグループホームの職員さん数名は勤務の都合上、職場を離れることが出来ないので忘年会への参加は出来なく申し訳なく思っています。昨年に引き続き、忘年会にかかる費用は全額事業所が負担しますが、当日会場ではお酒が出ます。お酒を飲む人は、帰りの車の運転は出来ませんので、その点を考えて会場まで来てください。
忘年会日時 ; 平成23年12月17日(土曜日) 夜7:00より
忘年会会場 : 鈴鹿市住吉町 欧風家庭料理の店 「 ランテルナ 」にて
二次会は当時、相談の上、決定します。
さて、忘年会にはお酒が付き物です。お酒の飲み方は千差万別、それぞれの固有の飲み方があるようです。舐めるように楽しむ派、グビグビと水を飲むごとくワインを飲む派、飲めば飲むほどケタケタと笑い上戸になる派、逆に酔っぱらうと涙を流して悲しくなる派、そして、最低なのは、怒り始める派。最後の怒りはじめて、やたらと相手に噛みつく輩は、扱いが非常に難しい。「まあ~まあ~まあ~」といなそうにも、相手は僕の手を振りほどいて逆に怒りが増す。挙句の果てに「おまえには、わからへん!」と来る。 「・・・・・そりゃまあ~、俺にはわからへんさ!」と心の中で思いつつも、そんな事を言おうものなら、彼の怒りの矛先は関係無い僕に向けられる。何を言っても、勝手にい飼っている本人は、放っておくに限る、かくして、怒り上戸の彼は一人ぽつ~んと放置され、寂しく一人手酌で酒を飲み続けてしまうのである。
飲み続けて酔い潰れる輩は、まだ可愛い!飲みつぶれるどころか、前にも増して怒り心頭、その内に物に八つ当たりし始める輩は最低である。こん輩と派酒の席を一緒にしたくはない。でもね、そんな八つ当たりの彼も、翌朝には酒が抜けて正気に戻るわけだが、そんな夜のハプニングを彼は一切覚えていない。皆に迷惑かけたことなどどこ吹く風。いたって平常心で仕事にもどっているのである。
って、この話は太陽の家の職員の話では無いですよ! 皆さんには誤解の無いように!
前回、僕のブログでも書いたが、デイサービスの利用者の意欲を高めるには、何が必要か?と言う点について、今回、ある職員から相談を受けた。確かに、利用者の中には、意欲を一切感じる事の出来ない方が居るのも事実である。認知症がすすんでいるわけでもなく、既往歴を見ても特に生活に支障をきたす要素もみられない。客観的には「廃用性」の症状が強いのではないかと思える人。そのような利用者がチラホラ見受けられる。今日のデイサービスにおいても、午前中の入浴時間に順番を待つフロアーで、介護主任が四苦八苦している姿を見かけた。結構、話術も巧みでソフトな接遇を実践できる主任ですら苦慮するのである、いったいどうすれば、この利用者に意欲を持ってもらえるのか・・・?
この問題は、非常に難しい側面をもっている。意欲を促す中で障壁となるのが「個人の意思を尊重する」と言う点である。高齢者の人権を守る上で、尊厳と自己決定が大きく叫ばれる中、無理強いは決してしてはいけな。しかし、有る程度ねちっこく口説き落とそうとする行為に、逆に個人の感情を害することも想定される。こうなると、知識や経験の不足している職員は、口説き落とす前にギブアップするか、放置してしまうことになってしまう、または、職員自身も自信を喪失して業務に対するモチベーションが低下すると言う結果にも繋がりかねない。管理者として、この状況を放置する分けにはいかない。
さて、そもそも、この『意欲』と言うものについて考えてみたい。意欲がその人にとって今、必要ななのか?である。意欲って、言葉で言って、相手の中に湧き上がる感情ではない。もっと簡単に言えば、意欲は食欲や性欲などの欲求とは少し違う欲求ではないか?と言うことである。食欲も性欲も、人間の中の欲求ではあるが、どちらかと言えば煩悩に近い欲求である。それに比べて、この特定の人の意欲は、何よりもその人のパーソナリティーとして考える方が自然かと考える。パーソナリティー=人格ととらえると、その人の持つ様々な特性因子が作用している特性論的人格と判断できる。つまり、高齢者の場合、本人による評価と第三者による評価に誤差があるのですが、まさしく、この状況ではないかと考えられます。さらに分かり易く言えば、私達、断三者が判断する「相手は喜んでいない」「相手は意欲を持っていない」であっても、その当事者は意外と喜んでいたり、それなりの意欲をもっている場合がある。ここで、忘れてほしくないのは、高齢者の感情自体は、老化に影響されず豊かであり、第三者から見るとあまり感情が表出していないように認識されやすいと言う点である。
ここまで小難しい理論を書いてきましたが、実際の現場でのアドバイスにしては、現場職員に受け入れてもらえにくいので、もう少し具体的にどうすれば良いのか・・・を書いてみたい。 先にも書いたように、意欲を感じられない利用者の本心は、私達が感じる以上に意外と意欲的なのかもしれないと言う点を理解して、その人の人格として感情表出が苦手な人なんだと考える必要性も頭に入れながら、さらに感情を上手に表出できる場面を作っていくことに専念する。他者と同じ場所では「遠慮」など感情表出に邪魔なのであれば、場所を変え、その人がやりたい事をどんどんやってもらえる環境を確保する。そうしながら利用者の信頼を得るように働きかける。その人にとって信頼でき、安心できる支援者であれば、そこには、更なる本音が出てくる。
その人を本当に理解し、信頼を得ない限り、いくら言葉で誘っても、職員の意のままに高齢者を操れないと言う事です。
介護職ってのは、本当に大変です。しかし、これらの事を考え、理解し、実践できる介護職員は素晴らしい。