ガキの頃に数本の虫歯治療を行って以降、大した歯の治療の必要も無く今までこれたが、この歳になるといよいよ歯の治療が必要となってきた。今年に入って、左上の奥歯に痛みを認識し始め、その都度、歯医者に行っては痛みを訴え続けてきた。私は根っからの小心者で、痛みに対して非常に弱い。こんなものくらい!って歯科医師に笑われるような症状にも、痛い!痛い!と繰り返し言ってきたが、ここに来て、夜も寝れない程ズキズキと痛み始めた。
予てより、痛みがひどいようなら神経を抜くしか手立ては無いと言われていたこともあって、今日は朝から診療予約を入れて受診する決心をした。決心と言うと、神経を抜くと言う決断となるわけで、診療台に座るや、麻酔を打たれ、あれよあれよと言う間に歯を削られ、麻酔の効きが悪いと、追加の注射をして・・・と大騒ぎ。診療中も歯科医師や助手と話を続けたため、喋りすぎ!と叱られ、トホホ…・恐怖感をごまかすため、しゃあないねん!と一人思いながらも黙って治療を受けた。
治療には、さほどの時間はかからなかったものの、やはり麻酔が効いている状態だと、口に違和感を感じ、食事するにもいろいろと不便なことが多いものである。食べたものが口からこぼれる!まず、これが一番大変。次に、痛くない部分まで重い感覚で、余計に全ての歯が痛みだしたような気になる。やはり、健康って大事だ!と改めて感じた歯痛だった。
今日から太陽の家では、海外からの研修生を二名受け入れている。以前、介護職員としてペルー人を雇用していた時も、それなりに異文化の交流があったが、今回はブラジル人の研修生である。まず、大きい! 日本人とは違って体格が良い。食生活が日本と違うせいか、体のつくりが違う。そして、考え方も違う。顔立ちは日系人だけあって、日本人風の顔はしているが、それも、人物全体から醸し出される雰囲気は生粋の日本人とは異なる。何が違うのか、はっきりとは言えないが、やはり根底に存在する考え方の違いが、そのまま態度や行動に違いを生じさせているように思う。
そんな研修生と一日過ごして、終わりがけに反省会と意見交換会の場を持った。もともと短期間の研修と言う事もあるので、利用者の全体像を把握して介護することは困難であるので、表面的な傾聴を中心とした介護を実践して頂いた。入浴介助の現場にも立ち会ってもらったようだが、それなりに感じることは多かったようだ。
利用者の皆さんも毛色の違った研修生の訪問で、皆さんが余所行き言葉で応対をしていたのが笑える。皆さん、それなりに笑顔で、根掘り葉掘り、時折、大阪のおばちゃん的図々しさを発揮して、年齢やら結婚やらと質問をしていたが、意外と皆さん、利用者の方々は楽しそうであった。特に面白かったのは、重度の認知症を患っている男性利用者さん、普段だと職員に抵抗ばかりしている人なのだが、今日の研修生の片言日本語の語りかけには、終始苦笑い。言うこともちゃんと聞いてくれている。と言うと、普段の拒否ばかりの行動って、確信犯なの?と疑ってしまう。まあ、認知症って、そんなもんだ!と・・・・
うちの職員も、物珍しそうに接していた。特に言葉が変になってしまう傾向になりがちだった。相手が日本語を理解できないのではないかと言う心配からか、ちょこっとカタカナ言葉を交えたり、身振り手振りで話をしたり、特にゆっくりとはっきりとわかり易く説明しているリーダーが印象的だった。まあ、時には、こんな研修生を受け入れてみるのも変化があって、ちょっとした息抜きになって良いのかもしれない。そんな感想を抱きながら苦笑いする私だった。
そう言えば、最後の意見交換会で研修生が、朝礼で私が職員にミスに対する注意をしてた姿が恐ろしかったと言っていたが、本当の私を知らないな!と思いながら、ちょこっと悔しくて腹立たしい思いでいたが、内心では「日本人男性の本当の優しさは、外人のお前らには分かってたまるか!」と一人でぼやいていた。
音無き不安、光無き恐怖と書かれたタイトルを見て、本当に大震災時における恐怖や不安は健常者には想像できない程のものであろうと感じた。東京直下型大地震が話題に上がって間もない今日、朝夕二回程、東京近郊で震度2を観測した地震があった。あれ程過密した大都会で大きな地震に襲われた障碍者の不安を考えると、私たちが思いやってあげなければ!と強く訴えたい。
例えが悪いかもしれないが、私の愛する愛犬の一匹が視力を失った。小型犬の女性だから、なおの事小ぶりのダックスフンドである。普段家の中を自由に歩き回っていた彼女も、失明してから、我々人間の移動が見えない。見えないと言う事は、音で相手の行動を察知する以外に方法が無くなるわけで、そんな彼女は、我々の急な行動を回避できず、時々、結果的に足で蹴られる時がある。最近では、そんな突発性の事故を嫌って、音を聞いて、大げさに逃げる行動に出るようになった。すると、今度は、自分のいる場所と家具の距離を察知できずに、家具にぶつかる事がある。
見てると本当に可哀想に、また不憫に思い、家の中で私たち家族は、不意の行動に最新の注意を払う事となった。犬でさえ、暗闇の世界は不安定極まりないはず。ましてや、そんな不安定な環境に、周りの多くの人間さえもパニック状態で右往左往する中では、障碍者は安全地帯に非難する事すら難しくなる。聴覚障碍者にしても同様、自分の身の回りの異常に即、反応できない。
我々、健常者は、もしもの災害発生時には、そんな障碍者の苦悩を理解して、出来る限りの援助の手を差し伸べて欲しい。視覚障害者が、聴覚障碍者が、我を忘れて逃げ惑う健常なもの達になぎ倒され、踏みつけられる、そんな姿は見たくは無いと思っている。
今日の仕事、終わりかけの時間に太陽の家 居宅介護支援事業所のケアマネから二つのブログネタを提供された。一つは、私自身の職員への接し方が以前に比べてもやさしくなった!と言う件、そして、二つ目には、昨日の僕のブログネタではないが、居宅介護支援の中で、彼女なりに感じる「要介護認定の不思議」についてであった。私が職員に優しく接することに、自分自身が今でも自問自答を繰り返している。という段階で、その処遇方法に結論は出ていない。太陽の家を設立した当初は、自分自身も福祉は初めての業務であり、暗中模索の連続であった。周りの職員は、それぞれ色々な施設での経験を積んだ者が多く、私自身、彼女達に頼り切っていたところもあるが、逆に経営者として自分の目的と意味を見失わないように、結構意地をはっていたところはあった。そんな、負けてたまるか!という意地の局地が、結構荒くれた存在であった自分が居た。ところが、それから数年の時が経ち、自分自身も福祉を学び、それなりの資格取得も達成した今では、逆に全開、フルスロットルで走らなくても、職員を管理できる状態となったと思っている。その気持ちのゆとりが、優しさとして出てきてるのかもしれない。
次に、要介護認定の不思議については、守秘義務という厄介な代物が存在するお陰で、詳しくは述べることが出来ないが、要するに要介護認定基準のあいまいさの問題が、大きく高齢者介護を後退させている。と言うことである。要介護認定も人が判定を下している。もちろん、一次審査は点数によって機械が判定を下す。その判定を基に、介護認定審査会なる有識者のグループが、細かな点をつついては審査を行う。誰しも、自分自身の要介護度を高く評価される事には抵抗があるはずである、と思うが(考えてみてほしいのは、貴方は動けなくなった老人・レベル5でっせ!と評価されている様にに感じる人もいるかもしれない。
しかしあながち、そればかりではないようなのだ!そこには、いろいろな環境が左右するわけで、家族支援を望めない要介護者は、出来る限り限度額の多い要介護度を求めるわけである。高い要介護度を設定されると、その分、利用できる限度枠が拡大する。1割負担は受益者負担としても、枠の拡大は利用範囲の拡大とイコールだからだ。また、施設の場合は、要介護度によって介護報酬に開きがある以上、高額の要介護度の利用者の方が実入りは大きくなる。
先のブログにも書いたように、介護保険をビジネスと考えて運営する法人にとっては、これらの要介護度と言うのは、とても大きな注目点なのである。だから一番良い方法として、重度であろうと軽度であろうと、要介護者には、一律の報酬として、その人に本当に必要なサービスを提供してナンボ!というシステムに変えれば、提供されるサービスの質も向上するのではないか。この場合、担当するケアマネジャーの資質が非常に大きなポイントとなってくる。必要とするサービスと提供できるサービスの格差。ならびに、僻地での供給源の格差等に関しても、共に大きな別の課題を背負い込む事となるからである。全てのケアマネジャーが公明正大に社会福祉の担い手として、客観的な第三者判断を持って、偏りのない計画を作成し、それに伴ったサービスが提供される世の中であれば可能であるかもしれないのだから、残念ながら、この私の書いている方法論も机上の空論と言わざるを得ない。
介護保険の報酬改正がこの4月に実施されることは、このブログでも数回書いてきた。今日は、グループホームの介護報酬改正に関して、自分なりの考えを書いてみたい。まず、今回の新たな改正で変わった点は、要介護1、2の介護報酬が切り下げられた。要介護③以上に関しては据え置き。そして、新たに1ユニットの事業所の報酬と2ユニット以上の事業所の報酬に差を付けた点が大きく変更となった。ご多分にもれず、グループホームの介護報酬も下がった!と言うべきだろう。
ここで問題となるのは、要介護1・2の介護報酬が下がったと言うことである。認知症に限らず要介護1・2のレベルの高齢者と要介護5の高齢者と、本当にどちらが介護に時間がかかるか?と言う疑問である。普通、要介護1というと、初期の要介護状態と考えがちである。(少し、言い方が変だが) 確かに要介護1の高齢者は自立している方が多い。さて、自立と言っても、自分で移動や食事、排泄が出来ると言う人達であって、認知症を患って重度の記憶障害があったり、精神的な疾患(老人性の鬱など)を持ち合わせていても、要介護認定に取り入れてもらえにくい点が実際の認定調査でも課題となっている。逆に要介護5の高齢者は、概ね身体機能御が極度に低下している人が多く、その大半は寝たきりに近い状態である。つまり、要介護1の高齢者は、健脚で自由に動けるが、記憶障害のために行方不明になり易い。行動は活発、言動も活発、介護者にも言ってみれば負担の多いけーすが多い。逆に要介護5の高齢者は、寝たきり状態であれば、行方不明になる心配は少ない。(当然だが・・・)、排泄もオムツなどに頼ってしまうケースが多い。それぞれ、違った対象であり、それぞれに専門性が要求される。もちろん、中には、支援の量で言えば、まったく支援の必要のない要介護1の高齢者も存在するが、大半は何らかの社会的資源の支援を必要とする人が多いのである。
簡単に言ってしまえば、要介護1と5では、介護報酬の単価は1.5倍程の差がある。報酬単価を設定した役人さん達は、要介護5の方が身体介護の量は多く、要介護1の方が身体介護は少ないはずだ!と言う理論を持って設定されているようである。だから、要介護1・2に関しては、それ程の支援の量は必要ではないから、単価を下げましょう!と評価されたのかもしれない。これは、認知症の高齢者だけに限らず、本当に高齢者に関わる疾病や症状を理解して、そこにサービスを供給している支援者の実情を理解しているのか疑問である。
グループホームにおける認知症高齢者の姿は、普段、短時間の訪問程度では見えにくい。認知症の高齢者の生活支援には、粘り強い根気と我慢が必要不可欠であるが、ほんの少し関わるだけでは、認知症特有の周辺症状(BPSD)は表出されない。だから訪問者は、何も一般のばあさん、じいいさんと変わらない!と思いこんでしまう。ところがドッコイ!な現象が、日常的に職員の頭を悩ます状況が見え隠れするのである。当然、職員にかかるストレスは大きく、少数の介護であり完全個室ユニットであることからストレスの固まりを虐待という非人道的行為で発散してしまうことも起こりえるわけである。
また、職員の負担は大変だね!と他人事のように澄ましてしまうことは可能かもしれない。しかし、ここまで報酬単価が下げられてしまうと、小規模ユニット程、施設経営が成り立たなくなっていく。ただでさえ9人・1ユニットだけの施設運営では、自ずと売り上げの上限が決まってしまう。そこにきて要介護1・2の率が増えれば、その分売り上げの目減りが顕著に表れてくる。当然、事業所としては現在の入居者に関しては、要介護度のアップを望む、つまり介護放棄まで行かない程度の低レベルな介護を進める事で、その利用者の身体機能は著しく低下する。また、新規入居者の選定では、要介護度の重い人を優先する。つまりグループホームの特養化が危惧される。
ただでさえ、認知症ケアのスペシャリストになるべく研修と研鑽に努めてきたヤル気ある介護職員達の気持ちを無視して、事業所の事業収支が最優先課題となった運営に阻まれ、更なる介護の質の低下が起こりえる。
認知症に限らず、人間社会の中で役目を終えたと考えがちの高齢者たちには、それなりの適切な声がけ、支援、援助と見守りを提供し続けないと、それこそ、肥大化する社会保障費用で日本国としての経済活動も公共事業もままならない状況となってしまうのではないかと心配する。もちろん、営利法人だけが悪ではなく、社会保障全体を食い物にする、そんな輩が増加する、そんな悪いスパイラルへのシフトが行われているような、そんな危機感にさいなまれてしまう。