偉そうに「半人前のころ」なんて書いて、今の自分が一人前か?!とお叱りを受けそうだが。そうではなく、僕自身が駆け出しのころの話をしようと思っている。ちょうど30歳代のころの自分は、まだまだ一人前と呼ぶには程遠く、虎の威を借りる・・・って人間だった。経済的にも余裕なく、仕事の面でも半人前。今でこそ、仕事でも大きな面して、威張りくさっているが、その頃の自分は、何事も控えめだった。信じられないかもしれないが、この僕がただ黙って、じっと耐えていたのだから・・・・。
その頃の自分は、今の福祉ビジネスではない、副業のほうでも駆け出しで、仕事こそ受注はするものの、自分の担当する時間以外は居場所のない寂しい業務をこなしていた。僕のブログでも紹介することもあるけど、F-1の仕事がそうである。このF-1の業務を受けるようになって、随分になるが、その当時は自分の席は存在しなかった。一日の大半は待機時間であった。それも室内で待機するのではなく、屋外での待機である。椅子もない。ただ立っていた。のどが渇いても自販機で自腹で飲料水を購入していた。僕の仕事は、F-1決勝当日に協力いただいた航空自衛隊の吹奏楽団のお世話係。前日の受け入れ、リハーサル、宿舎までのご案内。翌日のお迎え、現場までのアテンド。退場のアテンド。弁当の配布、お見送りまでの一連の作業を担当していた。二日間のすべての業務は、自衛隊のお世話で尽きた。
要するに、あの広いサーキットの中で、移動や食事などに不慣れな隊員の皆さんに失礼の無いよう最大限の気配りをすることが僕の仕事であった。F-1は今も昔も変わらず、関係者の出入りに厳格である。むやみやたらと入場パスを発行してくれない。当然、僕なんかに発行されるパスは存在しない。当日、必要な時間帯だけ他人のパスを拝借しての入場である。入り口でパスをお借りして、自衛隊のオープニング曲が終わってコースから退場する時には、パスもお返しする。そのまま徒歩で控えに使わせていただいていたホールまで移動。そこでは隊員の皆さんに食事の弁当とお茶をお配りして、昼食を食べていただく。僕は、そのホールの外で食事が終わるのを待ちながら、時間を過ごす。
ちょうどF-1の決勝レースが開始される前の、一番人々の期待が高まり、それまでレース場わきの土産物屋やホットドッグスタンドから観戦客たちが指定席に戻り始めるころである。VIPたちを運ぶヘリコプターの離発着がピークに差し掛かるころでもあり、屋外待機中の僕の周りには、高級スポーツカーを運転するセレブ達やヘリコプターから降りてVIPシャトルを使って特別観戦エリアへと先を急ぐ金持ちばかりがうごめいていた。次第に観客席から人々の歓声が高まり、それと同時にF-1マシンのエンジンが一斉に雄たけびをあげてレースがスタートしたような雰囲気が伝わってくる。
僕はF-1のマシンが走り回るレース場に居ながら、その映像は見れない。ただ音だけを頼りに、猛スピードで走り去るマシンを想像することしかできなかった。今でも、僕はF-1レースに関係する仕事をしていながら、レースそのものにそれほどの興味は持っていない。もちろん、レーサーへのあこがれも然程大きくはない。それは、この頃の経験が、僕にはF-1は単なる仕事としか感じることができなくしてしまったように思う。
さて、話はころっと変わって、半人前のもう一つの出来事。それは東京に半分業務で出かけた時の体験である。東京の晴海で見本市があって、その見本市に出かけた折。まだまだ田舎者で貧乏な僕が、身の程知らずにも、東京の青山で食事をしようとしたことに由来する。こんなしゃれた店で食事できれば・・・と思いつつ入店。お店の格も確認せず、席について驚いた。メニュー価格が想像以上に高い。自分がまかなえる額ではない。そのまま、ごめんなさい!と断って店を出ることもできたが、見栄というか、そんな自分が恥ずかしかった。隣の席にソフトスーツに身を包んで、モデルのような美女二人を伴って食事する若い男性は、そんな僕の財布の中身とは関係なく、惜しげもなく次から次と注文をしている。僕は、そんな彼らの大盤振る舞いを横目に、一皿の料理を待ち、料理を味わう余裕すらなく、そそくさと店を出たことを今でも屈辱の気持ちとともに思いだすことがある。
苦境の時というか、一番苦しかった時。今の僕にも、そんな時代が存在する。しかし、強がりを言うわけではないが、貧乏で力も無かったが、夢だけは持ち続けた。チャンスという機会を追い求めた。苦しい時こそ、冷静に自分を見つめ、その時できることを探した。そして、ただひたすら耐えた。昨日の鶴瓶の家族に乾杯って番組の中で鶴瓶はこう言った。
人生では「機会」「出会い」「縁」を大切にしなければいけない!とあった。人との出合いを大切に、そこに生まれる縁を大切にすることで、機会が生まれる。それがチャンスに変わる。と!
昨年から野菜を中心の食生活に変えた。それでも、まったく牛肉は食べないかといえば嘘になる。たまには牛肉や豚肉も食べる時もある。ただ、全体的に肉よりも野菜のウエイトが大きくなってきている。特に生野菜の摂取量が増えた。自分一人でレタス1個分は食べる。最近は「わさび菜」と言う野菜を毎日食べる。僕のサラダは、グリーンの葉っぱとともに、ルッコラ、アンディーブ、セロリ等とありあらゆる野菜を混ぜて、自分のオリジナルドレッシングで食べる。ソラマメも生で食べる。ブロッコリもカリフラワも生で食べる。ソラマメなどは生でチーズとともに食べると美味い。こんな食生活の変化は、血液中の悪玉コレストロールの減少に効果があるようだ。一昨年までの自分は、血液検査をするといつも言われていたのが悪玉が善玉よりも多いから気をつけろ!とばかり言われ続けてきた。それが、ここにきて悪玉の減少傾向がみられるのだ。この食事を継続しながら、さらに適度な運動を加えれば、さらなる効果が期待される。この夏に向けて、もう少し体を絞り、短足が少しでも目立たないようにシェイプアップを図り、ちょい悪イタリアおやじのプチメタボ腹ではなく、自己コントロールを達成したシャープなイメージで乗り切りたい。
そんな夏を目指している。
介護保険の改訂がこの4月から実施されたことを受けて、当太陽の家でも職員の雇用改善に重点的な改善を実施することとした。九年度では、介護報酬とは別枠で、雇用改善給付金なるものが与えられていた。新年度からは若干の制度変更が加わり、今までのような介護給付額に応じて純粋に加算給付されていたものを、キャリアパスやスキルに応じて仕分けられていたものが、本年度からは、介護給付の中に含んで給付されることとなった。もちろん、雇用を改善する目的を持った加算なだけに、事業所が利益として計上することは許されていないことはもちろん、それなりのスキルアップが果たせていないと、既定の利率で加算されることはない点がミソである。要するに、一定額の加算で私腹を肥やす事業所は罰せられ、もらうだけもらって自身のスキルアップもおざなり、介護の質の向上も望めないようなケアでは、逆に事業所も含めて罰せられる。もらう以上はがんばれよ!といった具合である。
さて、そんな条件付きでスタートした雇用改善。太陽の家では、利用者への提供サービスの向上もともかく、職員のスキルアップをメインに考えたキャリアパスを導入し、もう一度、職員の知識、技術と理念に至るまで、大改革を実施することとなった。基本的に、今よりはお給料はアップすることは約束するとして、その上げ幅が問題である。そこで、キャリアパスの登場である。
キャリアパスを簡単に言えば、その人なりの知識や技術などケアに必要な質の向上に向けて、段階的に向上させていく向上プログラムのようなものと考えてもらえればよい。今の状態がゼロの者もいれば、今が上級レベルの70の者も混在する中、持てる知識や技術レベルで判断するのではなく、私は、その人の向上していく努力の度合いを評価する方向でキャリアパスを導入するつもりである。つまり、私と初心者の介護職員とではレベルが違うことは一目瞭然であるが、こんな私も自己覚知もなくスキルアップも実践しない場合、一生懸命に努力して初級の高齢者ケアを学んでいる者よりも、評価は低いということである。評価が低いということは、その分のベースアップが困難になってしまう。つまりお給料に反映されない評価しかもらえない。ということである。
さて、そのキャリアアップに不可欠なのが、研修と定期的に行う人事考課である。研修は今までのように参加するだけではなく、その研修の目的を十分に理解してもらうためにレポートの提出を義務付ける。そして、そのレポートは採点を行い、それを踏まえた再アセスメントを行い、次の課題設定に結び付けていく。当然、人によって進捗状況は異なる。亀だから評価が下がるというわけではない。亀は亀なりに地道な努力を怠らなければ、それなりに評価を加えていく。
要するに、高齢者介護の世界も「家族介護の延長線」レベルではいけない!この道のプロフェッショナルを目指さなければいけない時代に来ているのである。素人でも良い。この道に入るきっかけが素人でもウエルカムである。しかし、一年たち、二年たちしながらも、初年度と同じレベルで介護を継続させるわけにはいかないのである。理論も当然、介護技術と介護理念も含めて、成長していかなければいけない。ちょこっと厳しくはなるが、それなりの達成感はある。どのみち、働く以上、どの職場でもスキルアップは求められる。働く社会人にも試験を受けてランクアップを成し遂げていく。ただ単に時間を過ごせば給料がもらえる時代ではなくなったのかもしれない。それなりに考え、それなりに結果を出していかなければいけないわけだから、職員もノホホンとしている場合ではないのかもしれない。
最近の若者を見てて思うことがある。今日も、近所の市民センターまで徒歩で向かっている時に会った若者もそうだった。一人、たばこをくゆらせながらゲームセンターに向かって歩いていた彼。歩き方も覇気がない。ダラダラとふてぶてしく、そして面構えも不機嫌そのもの。朝から何がそんなに気分が悪いのか知らないが、少しでも文句を言おうものなら、途端に包丁出して僕を襲うぞ!ってな感じが伝わってくる。ゲームセンター入り口でたばこを地面に放り投げ、足でもみ消して中に入っていった。
京都の小学生の登校列に車で突っ込んで、数人の人を殺してしまった18歳の若者といい、中学生がバスジャックを試みて運転手の胸を果物ナイフで刺したりと、とにかく今の時代の子供たちは病んでいるように思う。大事!大事!と過保護に育てたアホな親の元で成人するにつれ、子供たちをしっかりと指導育成する人物が周りにいない。そんな言ってみれば「不幸」な若者たちが多く存在する。アホな親は、子供ってのは放っておけば勝手に大きくなると信じ込んでおり、子供の都合や求めを無視して、自分の要望に固執し、まずは自分のやりたいことを優先。余った時間で子供を溺愛する。
親のプライドと勝手な理屈をつけて、学校の教育現場に怒鳴り込んでいくモンスターペアレンツも同様、権利ばかり主張して、社会との協調性を無視し言いたい放題、不条理であっても声が大きいほうが勝!勝手な論理をまくし立てる親を見てれば、子供だって、同様に言いたい放題、ごねたもの勝ち、そして、自分中心の論理を、正論のごとくまくし立てる。
今の若者を責める前に、今の親たち。私たち世代のものの考え方をいったん冷静に考え直し、世の中をリセットすることができれば、さぞうれし!といった状況である。先日のブログでも書いたように、人生、誰しもにそれなりのチャンスは到来する。今の日本社会には、アフリカの一部地域で貧困にあえぐ人たちのような厳しい現実は存在しない。もちろん、就職浪人や生活保護設けることができずに餓死する人も中には存在する。しかし、ある程度、最低限度の生活は送ることができる社会には成長している。社会をどのように考え、どう生きるか?は、個人次第という側面が無きにしも非ず。しかし、仕方なくすべてを社会に依存して生きるとしても、そこからの脱却は人間である以上、最低でも努力すべきである。野生の動物でも生きるため、必死になって餌を探す。それこそ生きる努力をしている。人間の勝手な行為が自然界の連鎖を断ち切っておきながらも、そんな自然界に適応しようともがく動物。
今の社会を恨み、反発し、不条理な論理を吠えまくり、自分中心な行動を考え直そうともしない人間たちは、それこそ自然界で必死に生きようとする動物よりも劣る!
◎ずばり・・・「速読術」
この本、たかだか120ページ。800円の本。読むのに2週間。
いまだに、セクション1しか読んでない。
・・・・・・・・・効果ないじゃん!
◎今、とても気にしてる事・・・・・・・「適度な運動」
春先の天候不順で歩くことができない日が多い。近所に数あるトレーニングジムへ通うか?!と思い立ったのがこの春に入る冬の終わり。いまだに、どこのジムにも所属せず。
◎ジムに出かける時間に都合がつかないなら、エクササイズレッスンをDVDで・・・・と考えて
最近よくCMで流れるエクササイズDVDを購入・・・・・
しかし、うちの家にはDVDプレイヤー無いし・・・・・
◎太るからと間食を止められつつも、買い物に行くたびに欲しくなって買ってしまったベルギーの板チョコ。
食べてるところを見つかると煩わしいからと仕舞いこんでしまい、今では一年が経過!