最近のテレビ画面ってのは、素晴らしくきれいな画像が再現できるように技術革新がなされてきた。それと共に技術の進歩は、テレビの価格までも低価格で販売できるような時代となり、そのお蔭で日本の電気機器メーカーは大赤字。販売シェアーも韓国や中国メーカーに先を越され、日本のお家芸とも言われていたテレビ業界も、世界の中では低迷することとなってしまっている。なんせ、50インチを超える大きさのテレビも数十万円で購入できる時代である。ちょい昔では考えられない価格であろう。十数年前に大型のプラズマテレビを購入したことがある。あの当時で僕は80万円を支払った。そんなに儲かっていない商売人にとって、非常に大きな出費だたことを覚えている。
さて、今日のブログは、そのようなテレビ業界の現状ではなく、今のテレビ画面の美しさってのが、本当に視聴者にとって有意義なのか否かを問いたい。
仕事を終えて家に帰り、いっぱいの焼酎を舐めながら観戦する野球は、昼間に起こった仕事のモヤモヤ等をすっきりと忘れさせてくれる貴重な時間である。そんな場面を設定してくれる大型液晶画面ってのは、臨場感もあり、実際の球場で観戦するよりも楽でありながら、その場の雰囲気に近いものを与えてくれる便利ものである。しかし、画面があまりにもクリアーすぎる画像は、選手の顔の細かなシミやほくろ、しわまで見せてしまう。
先日の巨人Vs中日戦では、外国人選手が頻繁にはく唾が、とても不潔そうで見てて不快に思えたほどだ。これは余談だが、外国人は、よく唾を吐く。Spittingって言って、日本語では唾を吐く行為となるが、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市に生活するスノビッシュなインテリを除いて、多くのアメリカ人は街中でも唾を吐くことが多い。そして、次にとても不快に思うものとして、民放BS放送のCMである。BS放送のCMの主流は損保会社や通信販売会社、化粧品やダイエット等サプリメントである。特に化粧品のCMでも、有名化粧品メーカーのようなイメージ戦略ではなく、その商品の効果を見せるCMが多い。賢明な読者には、そろそろ、僕が何を言おうとしているのかがお分かりだろう。限りなく実物に近いクリアー画像を使って、化粧品の効果を実証される時。これって、結構な違和感が見てる側にあると思うのだが・・・。
医療の現場において機材が高性能化し小型、軽量化することは素晴らしいことである。実際に、昔の胃カメラに比べると今の胃カメラって、とても小さくなり、おまけに高性能となって画像が鮮明である。早期の潰瘍や腫瘍の発見には、非常に大きな役割をこなしているといえよう。
しかし、仕事を終えてくつろぐ中で、まったく見知らぬ人のあばたもエクボ!と言ってられない。そんな現状に僕は、そこまでクリアーな映像を必要としないと思っている。
世の中、すべてに関して最悪の状態の時ってのは誰にでも存在する。その期間がどれほど継続するかは分からないが、その渦中にいる人物には、永遠に続くような気持ちになるものである。まずは、そんな状態は長くは続かない。と断言しよう!人生、どん底まで沈んでしまえば、あとは浮き上がることくらいしかできない。底は底だ!それ以上の底は存在しない。とにかく、自分で、そう信じることから始めたい。
次に、底辺を這うような状況に至った原因は、少なからず自分にある。これは断言できる。しかし、すべての諸悪の根源が自分にあるわけではない。ちょっとした判断ミス、油断、そして経験不足から起こりえるわけで、それらの諸要因に乗じて、その時に自分を取り巻く環境が運悪く悪い方向に重なった。それらの諸事情が合わさって、いろいろと頭の痛い問題を生じさせる。だから、尚のこと、諸問題で頭が痛い時ほど、普段以上に冷静に対処すること。焦らない事、怒らない事に徹する。
相手がある場合は、出来る限り客観的に問題を見つめながら、他人的な処理をしないよう心掛ける。要するに誠実に対処することを心がける。出来れば、第三者を味方につけるよう努力する。出来る限り多くの意見を、それも多面的意見に耳をかし、それぞれの意見をまとめて整理する。それと、どんなに面倒なことからも真正面からぶち当たる。それらの問題から逃げない。
とてもつらい時に辛いことを要求されているようだが、そもそも、それらの諸問題の発生の理由に、問題への対処不足が理由である以上、それ以上の不足を作ることは避けたい。
自分に、もっと力があれば・・・と考えがちであるが、これは国会議員などの権力を持った人間であっても同じ。頭痛の種に振り回され自分を見失ったものは、必ず敗れる。自暴自棄になるべからず!である。
こう書き記しながら、このブログを読む人々は、玉ちゃん、よっぽどひどい目にあってるのね!?と想像することだろう。それはそれで良い。こうやって、おおっぴらげに告白することで、自分自身の受けている負荷を減少させる効果もあるんだぜ!
ワイルドだろう・・・・! (ちょっと古くなってきたぜ!最近!)
先週末、東京に行っていたことはブログに書いた。しかし、この出来事はブログはおろか、うちの職員にも内緒にしていた。しかし、である。やはり内緒の話ってのは、結果的にすべてがばれてしまうのである。
その内緒の話ってのは、僕が東京から帰った日曜日の夜おそく、運も悪く局地的な大雨。白子駅を特急を降り、駐車場に車を取りに行く頃はまだよかった。雨も上がり、歩道に水たまりこそ散見できた程度。特急の中で、海側の窓に大粒の雨が当たっていたのが、四日市を過ぎた頃の話。白子駅の状態を心配しながらも、その時は自分の幸運さに一憂したものだった。が、しかし、自宅に近づくにつれ、雨の粒は大きく成長し、ふり落ちるスピードもかなりのもの。ワイパーを最強にしても追いつかない、それほどの雨に打たれながら、持ち帰った荷物の量を考えると、出来る限り自宅の玄関近くに車を止めたい。その気持ちが先走り、そのまま太陽の家をすり抜けるように玄関先へ。
と突然、嫌な聞きたくない音。・・・・・・やっちゃったよ!
そうです。太陽の家の外壁の角に、僕のプリウス、右(よりにもよって右側だって!)後部フェンダーをこすりつけてしまった。いやァ、ほんの数ミリのところで、フェンダーの一部に筋が入った。
誰にも内緒のうちに、翌朝早々にお友達の板金屋さんへ持ち込み、そのまま修理へ。修理中はプリウスで異音がしたので修理に!と釈明していたのだが・・・(確かに、日曜の夜のその一瞬に、異音がしたことは嘘ではない)修理が終わって車を引き取りにいかなくてはならない。そんな時って、結果的には誰かの援助がいる。
そ~う、修理屋さんまでの足の確保が必要なんである。そこで、仕方なくバラしてしまった。「車をこすったんです!」って!
食べれるということは健康な証拠!と誰かが言う。ある意味、正解である。病を患うと食事に対する欲求を失う。だから、腹がへる、食事がうまい、いくらでも食べることが出来るのすべてが健康とイコールにならない事が問題いだ。前回のブログで、ブタ君はあらゆる食いもの屋の名称、特徴やロケーションに詳しいと書いた。ついでに書くなら、ブタ君は、食べることに貪欲である。そして、何でも旨そうに食す!
かく云う私も、その一人。人からは「本当に旨そうに食べるね!」と感心される。それは、いたって当然なことで、食べることの好きなものは、本当にどんなものを食べていても、常に満足して食べている。何でもいいから空腹な胃を満たしてくれれば良いのである。味は二の次。とにかく満腹感を求めてしまうのである。だから、咀嚼回数も少なく、それこそ鵜呑み状態のように、噛む行為もそこそこに、飲み込んでしまう。
では、そんなに急いで、どの部分で味わうの?と言うと、早飯食いの我々ブタ君たちは、食事は舌で味わうのではなく、のど越しなのである。よくうどんの味は、のど越し!と言われるが、まさしくその状況が、全ての食事に言えるのである。咀嚼回数の少ない鵜呑み族は、十分な満腹感を得る前に、どんどん食べ物を体内に取り入れる。細かく砕いて腹に取り込むと、食物は膨張して、食べた量よりも多く感じて、その時点で満腹感を得ることが出来るのだが、その前に必要量以上のモノを詰め込んでしまう。結果、カロリーオーバー、ついでに過剰な糖分の接種となってしまうのである。
胃の中に入った食物は、長い年月をかけて内臓の壁を傷つけ、治っては傷つけを繰り返し、結果的に内服薬では治療できないレベルの病を背負い込むこととなる。そして、病となって、初めて食べれることの貴重さを認識することとなり、それまで自由に無制限に食べていたことを公開することとなるのである。
こうやって、夕食後にパソコンに向かってブログを書くとき、とても口さびしくなる。十分な夕食を食べて、まだ数時間も経過していないというに、もうすでに小腹がすいてくるのである。こうなると、僕は自分自身の気持ちの中で大きなバトルを強いられるのである。何か食べたい自分と食べちゃいけない自分の二人が争うのである。こう見えても一応の自制心ってのも持ち合わせているのである。
しかし、このバトルに勝つってのは、意外のほか私にとって厳しい。食べたい!気持ちを殺すには、自分の人生に影と光の両面を意識し、影への恐怖心を際立てていかないと、結構、自分の固い決心も崩れてしまうこととなる。
まあ、何にでも適度!があるように、食べるという行為にも「ほどほど」を維持する必要性をブタ君は学ばないといけない。(このブログ自体、執筆しながら、自分自身を戒めているのである)
今日のブログネタで仕入れた話であるが、小太りの人間ほど、近隣の食いもの屋の名前まで良く熟知しているという。
僕自身もそうであるが「食べること」を、こよなく愛し、食べるためにはどんな苦労もいとまない。周りの者からよく言われるが、手ここしく料理を作る陰には、自分がおいしいものを食べたい欲求の裏返しであると。確かに自分が調理するときは、本当に手間暇を惜しまずに料理をする。料理ってのは手間暇を惜しんで作ってもおいしいものは出来上がらない。ゆっくりと時間をかけてだしをとる行為、口当たりをよくするための裏ごし等、調理にはじっくりと丸一日どころか二日も三日もかけて下準備をしていく。そこまでしても食べたい。その気持ちが、小太り爺さんの気持ちを突き上げる。
食いもの屋の名前だけではなく、その個々の店の詳細について詳しく分析、熟知しているのが小太りの特徴らしい。実際、うちの施設のもう一人の小太り(大太り・・・?)に聞くと、確かに詳しい! 普通なら店舗名までは忘れてしまっている者が多い中、彼は的確に店舗名まで知っている。そして、それらの店に実際に行ったことがある。そしてさらに驚くことは、それなりの評価を出来る。と言う点である。店の評価をするには、一回程度の訪問では食べ物の評価は難しい。恐らく、彼は何度も何度も足げに通って、所謂レストラン情報を自分なりに整理しているのであろう。
しかし、食通という響きは結構、魅力的ではあるが、年齢の経過とともに食べる量と質を考えていかないと、とんでもない病気を患うこととなる。30代はまだしも、40歳を超えるころから食するものを考え、自分なりの一定の制限を設けないと後悔することとなることは明白である。実際、僕自身も公開した部類の人間として、今はまだ若い大太りの君に忠告する。食べたい気持ちをコントロールすることは難しい。特に我々にはキツイお仕置きみたいなものであるが、それを堪えないと・・・・わかっちゃいるけど止められない! 辛いね!