先日のブログでも少し書いたと思うが、最近の爺さん婆さんは孫を叱ることができない。叱るってのは、人前で孫の人格を無視して、叱りつけるという意味ではない。先日、近場のスーパーで買い物中の出来事を紹介しておこう。スーパーという場所には、幼子を連れて買い物に来る母親のために、子供が喜ぶようなショッピングカートを用意しているが、このスーパーも同様、子供を乗せて買い物するに都合よくあつらえられたモノがあって、その子もベビーカート様モノに座り、爺さん婆さんに押されてお買い物を楽しんでいたはずである。が・・・何を血迷ったのか、突然カートの中で暴れだすわ、奇声を上げるは、それはそれは流石の僕も耳を覆いたくなるほどの金切り声で泣き叫び始めたのです。普通、こんな子供の興奮状態に家族はどのように対応するんだろう・・・
まあ、先日の女流漫画家の飛行機の中で泣き叫ぶ乳児に対し怒りのブログが物議を読んでいると言う話もあるくらいだから、乳児、幼児の「ぐずり」ってのは、ある意味自然の摂理みたいなもので、子供は泣き叫ぶものと思えばそれだけの問題である。しかし、僕が問題だと感じるのは、そんなときの爺さん婆さんの対応の仕方である。
またある時は、孫を連れて買い物に来ている爺さん婆さんも同様、奇声をあげて走り回る子供を尻目に、子供を規制するでもなく、しつけるわけでもなく、自由奔放に野放し状態で見てるだけであった。電車にのっても同様の話は多くある。子供が靴を履いたまま、座席に立ち上がり窓から外を眺める、座面のクッションで飛び跳ねる(それも靴履いたまま)等の我々の常識は、すでに過去の遺物となってきたように、何も注意すら与えようとしない。
爺さん婆さんは若嫁に気を遣い、孫の心情を傷つけまいと苦労する。どうせ歳とりゃ捨てられる身にも関わらず次世代にへつらう爺さん婆さん。日本人の老後が長くなるにつれ、歳を取るにつれ世の中にへつらい、人生を悟ったように大人しく自分を殺して生きていかなければいけない年寄たち。
この世の中、本当におかしい! 弱者救済どころか、一昔前の封建制度のもとで権力者に搾取されて生きてきた時代と何ら変わらないではないか!!少子高齢社会となって、大人よりも権力を握った子供たち! 恐ろしい世の中になりました。
いじめ問題を精査していくと、全国で144000件のいじめ予知が明るみに出たという報道である。テレビのニュースでその実態を知って愕然としたが、同時にその検証のために実施されたアンケートの設問をみて更に驚いてしまった。アンケートの設問には、周りの者から無視されたことがある。意味なく肩をつつかれた、叩かれたことがある。などの内容も含まれており、子供社会で起こりえる悪ふざけの類も含めて「いじめ」の予兆として、取り扱われることに愕然としてしまうのは僕だけだろうか??
確かに「いじめ」は、当事者にとって非常に深刻な問題であり、況してや自殺にまで発展してしまいかねないケースは考えなければいけない問題であると思う。しかし、すべてに際し子供たちの交わり方に深く大人や司法が介入していくことは、子供の自主性はもちろん成長指定行く中の経験から学ぶ場面を取り上げていくことにならないのだろうか?僕は以前から、いじめに対してはいじめに合う当事者の受け止め方にも課題はあると考えている。いじめを受ける精神的なストレスを如何に取り入れ、如何に対処していくかを学ぶ必要性もあると思っている。人間社会に生きる事って、とても厳しい。子供時代に全ての危害から保護し、大人が先に先にと擁護するなかで育った子供が、成人して以降に一人で力強く生きていけるのかが疑問である。
いじめを行うも、受けるも同様、人間が生きていくうえで通り過ぎなければいけない儀式であるかもしれない。たくましく生き残るのは、どうすれば良いのか?それを学ぶことが優先され、子供たちを必要以上に守るだけの法則は不要ではないかと考えている。傷ついた我が子をダシに学校や社会を相手に苦情を申し立てるクレイマーの増加する中、社会全体が保身に回ってしまうことは、さらなる人間関係の希薄につながり、相互理解や協力のもとで生活を継続することは出来なくなってしまう。
高齢者介護の実践現場では、年老いて不要となった者に対する社会は、昔に比べると扶養の意識も変わり、地域密着と叫ばれながらも地域社会とのかかわりは更に疎遠となり、昔のような社会資源を利用して生活を維持することが困難な時代。僕は、今政府の目標とする社会保障の充実には、日本人の社会に対する考え方の根本を改めることも必要であると思っている。社会を混乱させ、自分勝手な理論がまかり通る間違った権利意識を何とかせにゃならんのではないか?!
京都大霊長類研究所の松沢哲郎教授らのグループは19日、「類人猿にも中年の危機」とする論文を米国科学アカデミー紀要に発表した。日本を始めとする各国のチンパンジーなどの類人猿を調べた結果、「中年」にあたる年齢で最も幸福度が下がっているとするデータが得られたといい、グループは「中年で幸福度が下がるのはヒト科共通なのではないか」としている。(産経新聞)
この記事は今日の産経新聞に掲載されたニュースということでネットで紹介されている。チンパンジーも中年ともなると薄幸になるという説である。人間同様ということは、今まで意識したことはないが、中年のおやじってのは、幸せからどんどんと遠のいていく存在なんだ!と改めて認識してしまった。まあ、僕の場合、中年と言うよりは初老に近くなってきているので、薄幸もさらに薄く、細くなりつつあるんだろう・・・このような言葉を聞くと、本当に心さびしい、わびしい気持ちになるもんだ!
さてさて、中年となると何が薄幸か?自分自身に照らして解説してみようと思う。まず、肉体がたれる。下っ腹に脂肪がまき、ぽっちゃりとしたお腹が目立つようになる。これがなかなか改善されない。燃焼効率が低下するからか知らないが、ちょっとやそっとの運動では脂肪が念そうされない。だから下半身デブとなりやすい。下半身同様、顔の皮膚にもたるみが出る。この現象を如実に物語るのが毎朝行う髭剃りのときに、つくづく実感として感じる。昔は髭剃りのレザーも数回往復するだけで、とても滑らかな剃り具合が感じられた。それが、年齢と共に何度も何度も剃っても滑らか肌が戻ってこないのである。
加齢臭の問題。夏場は特に厳しい!自分でも綺麗に念を入れて洗っているつもりでも時間の経過とともに何処からともなくにおい始める。あゝ、それと風呂の湯船に浸かって感じる皮膚の水キレの悪さ・・・・とかなんとか、全体的に肌の衰えは信じがたいほど如実に加齢を物語る。
見た目の衰えは、そのまま社会的にも見劣りがする。若いピチピチボーイと比較すると、それはそれは、大そうな見劣り度合。若い女性だけでなく、すべての女性には見向きもされなくなる。これは、はっきり言って寂しい。寂しいから自分から中に入っていこうと努力する。(この図々しさも加齢のなせる業とは自分は気づいていない。そこが問題だ!)努力すれども、総スカンを食らう。そりゃ、誰だって若い子の方がいいに決まってる。
会社に行けば、中年特有の豊富な経験と慣れが仕事の行方を阻む。豊富な経験は貴重である。しかし、若者からすれば、ちょっとくらいの経験値で大きな面するなと敬遠され、慣れは意外なところに落とし穴が沢山あいているのである。時には地雷として、ついつい自分で踏んでしまって大失敗と言う場面も存在する。中年となってトップには届かない中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは煽られ・・・やれやれ、俺はいったいどうすれば・・・・
恋愛からも遠ざかり、人生も半分以上を通り越し折り返し点を通過した者、残っているのはシガナイ老後の生活??これでは、チンパンジーにも負けてしまう人間の中年。薄幸の論証にまけず、これから一花、二花と言わず、若者に負けないカッコいいおっさんを目指そうではないか! しかし、ねえ・・・・つらいね!
昨日、名古屋地裁において小児虐待の判決公判があった。この事件は、今年の8月初旬の夜、同居する女性の一歳になる子供の頭部を床に打ち付け、四肢まひなどの後遺症を与えた虐待で訴えられていた裁判である。原因は育児経験のない男が、犯行の二週間前に知り合いになった女性と同居することとなり、男児の夜泣きでストレスをためた結果、男児の顔を平手や拳で殴ったうえ、木製の床に投げ下して頭部を打ち付け、四肢麻痺や視野狭窄、知的障害の後遺症を伴うくも膜下血腫や頭蓋骨骨折などのけがを負わせたのである。
高齢者に与える虐待の大半は家族介護の中で行われる。統計では、要介護者となった母親に対し、その息子が虐待行為を行うことが一番多いという報告まで出ているが、今回の幼児虐待も同じで家庭内で起こった悲惨な状況と言える。虐待と言っても幅広く、今回のような身体に危害を加える虐待だけではなく、心理的、精神的苦痛の伴う場面も虐待であり、経済的苦痛を与えるものも虐待と言われる。もちろん、言葉によって相手を傷つけることは、身体的に危害を加えることと同様罪は重い。
今回の幼児に与えられた虐待は、のちの余生に大きな障害を残す残酷な虐待行為であり、これらの愚かな行為は絶対に排除されるべき行為である。視野狭窄や四肢麻痺を抱えて成長指定行く中で、どれほどの苦痛と不便を感じながら生きていかなければいけないかと考えると、その子にとっての苦痛は想像以上であるはずだ。障害を抱える本人だけでなく、その家族も同様、障害を抱える子供を不憫に思い将来にわたって不安な気持ちを抱えながら生活していかなければならない。
若いお母さんが、人恋しさのあまり出会って間もない、相手の事を十分に理解しないなかで軽はずみに招き入れた安易な気持ちのせいで、一生の禍根を持ち続けなければいけない事態。これは、悔やんでも悔やみきれない厳しい現実である。
そして、この判決公判では、加害者の男に、懲役2年8月の実刑判決が下った。虐待を受けた子供は、これから先何年の間、複数の障害を抱えながら生きていくのか考えると、加害者の三年弱で釈放される司法判断をどのように感じるのか?知識不足から、その行為の招く結果を図り知ることのできなかった加害者は、3年もたてば記憶から遠く忘れ去られ、また人生をやり直すことが可能である。その時によき理解者に巡り会えば、もう一度、結婚して家庭を持つことも可能である。
この手の事件には、やりきれない憤りが伴う。加害者の男性は論外であるが、こんな男を受け入れた母親にも大きな過失責任に近い責任があると考えられる。子供自身、親を選ぶことはできない。全ての子供が平和と幸福を約束されて生まれてくるわけではないが、しかし、少なからず生まれてくる子供のスタートは平等であるはずだ。そして親はそんな子供の将来を守っていく大きな大きな義務をもつこととなる、その意識の欠如は学校では教えてくれない。親から子へ受け継がれていくものである。
人間の子供が人間として成長していくには、親の保護なくして成し得ないのである。世の中の若いお母さんたち、子供の大切さ、その子供の人生を決定づける因子はお母さんたちも握っているのだという事を忘れないよう子育てに奮闘してもらいたいものだ。
最近のテレビ番組で、B級ニュースばかりを特集するコーナーがある。B級とは、グルメでもお馴染みの一流ではないけど、それなりに味わえる食品を指してB級グルメと言うらしいが、これと同様、ニュースネタとして特筆するモノはないが、それなりに話のネタ程度のニュースソースである場合、B級ニュースと言う。さて、そんなB級なニュースとして、今日のネットニュースでは、コンビニでパンを盗んで、店の前で食べていた男が通報されて捕まったというネタである。一か月ほど無職で腹が減っていたので、食べる事しか頭に浮かばなかったらしい。かわいそうと言えば可愛そうな男だが、無銭飲食にちかい行為に、哀れとしか言いようがないケースである。
福祉施設におけるB級ネタ・・・そんなのあるかいな???と考えてみると、それがそれが、意外とザックザックと唸るほどB級ニュースの宝庫。ちょこっとだけ、書いてみよう。
うちの施設の端っこにごみ集積所として、駐車場の隅にプレハブ小屋を置いている。その小屋に誰かが車をぶつけたらしい。と言うのも、今日、うちの職員がゴミを捨てに行って際に慌てて帰ってくるなり、僕に報告したことで事件は発覚した。彼女の説明ではブロックからごみ置き場が落ちそうです!と言うので、少し意味が分からずにさっそく現場確認を行った。すると、彼女の言うとおり、プレハブ小屋自体が土台のブロック片から大きく後ろにずれている。右端の柱の下は、ほんの少しだけブロック片に乗っているだけの状態であった。きっと、誰かが、車を駐車させる際に、後方確認せずに車の後部で小屋を押したのではないかと想像される。じんわりと力をかければ、ブロック片の上に設置してあるだけのプレハブ小屋だから、車にはダメージなく、小屋が移動する。そんな現象があったのではないかと思われる。
福祉施設では、こんなアホみたいな事件が結構頻繁に起こるのである。その理由は?あはははは・・・・わかりません!
でも、明日の昼間にでも、小屋を直さないと・・・・こっちの方が大変じゃ!