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ブログ-施設長の部屋

2013/3/27
理学療法士を先生と呼ぶ不思議。

理学療法士とは、Physical TherapistまたはPhysio Therapist)は、医療従事者(コ・メディカルスタッフ)の一員であり、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)、視能訓練士(ORT)と共に、リハビリテーション専門職と称されるうちの一つである。施設によっては、これらの専門職を先生と呼ぶ事業所がある。

なぜ医療従事者は先生と呼ばれるのか?それでは看護師も医療従事者の一部であるにもかかわらず先生とは呼ばれない。同じ業務独占の名称であり、ましてや看護師の場合は医師と同じ「師」である。その反面、理学療法士は名称独占の社会福祉士や介護福祉士同様「士」である。漢字ひとつみても、僕には理学療法士を先生と呼ぶ理由が理解できない。

理学療法士の皆さんを馬鹿にして言っているわけではない。リハビリテーションの分野においては、とても重要な役割を担っており、高齢者に限らず障碍者にとっては神のような存在であることは認めている。しかし、それとこれは少しばかり意味が違うような気がするのだが・・・

社会福祉に医療と介護が含まれることは、当然の事実であり、我々介護職もソーシャルワーカーもその分野の一部を担う専門職の一つでもある。地域ケアが叫ばれる中、医療、特に医師も一つの社会資源の一部であり、古い昔のように医師を頂点としたヒエラルキーの元、頂点に立つ医師がすべての意思決定を行い、縦の関係性を駆使していた時代と同じように、医療従事者としてヒエラルキー上部に位置するという昔風の慣習的敬称なのか?

地域で高齢者を支えるシステムとなり、高齢者介護を施設入所だけでまかなうことが実際に困難な状況となるほど高齢要介護者の増加が想定される今、地域における医療、介護、インフォーマル社会資源など関係する専門職と地域資源が同じ立場で情報を共有し、協働することで要介護者を支えていこうという時代において、理学療法士や社会福祉士などの特定の専門職を先生と呼ぶ時代ではないと思っている。医療や介護の目的でもある弱者救済の場に「先生」ばかり増え、救済される側との関係性において主従関係が存在すること自体おかしな話である。立場を超えて、専門性を生かし、伴に支える意識が無くってどうする?!認知症指導者となって修了証書授与式の時に言われた言葉、「認知症指導者となることは、偉い人となったわけではない。」この言葉が心に響く。

そう言う僕も、医師に対しては先生をつけて呼ぶ。同じ立場で要介護者を支えると言いつつも、医師だけは違う。その理由は僕自身の理屈が矛盾しているということなのだろうか・・・?

こんな事に拘っているうちに眠気が飛んでしまって、また今夜も一人紋々としてデスクのパソコンに向かってつぶやいている・・・

2013/3/25
認知症の人へのホスピタリティ

僕は、このブログを通じて、認知症の人に対する考え方や捉え方をいろいろな角度から書いてきた。それは、今後増え続ける認知症の高齢者のため、と言うと格好いいのだが。さらにもっと現実的な話として、今後自分自身が必ず認知症を患っていくこととなることを想定し、うちの太陽の家の職員の成長を期待して書いてきたつもりである。このブログは、そういった意味では成果を得ることができた。職員だけではなく、同じ立場の他事業所の人々へも、情報を共有する意味において役立ってきた。

最近は特に、認知症に限らず高齢者介護の現場に不足している「ホスピタリティの心」について書いてきた。ホスピタリティを重視する事業は、高級ホテルやリゾート業界ばかりではない。今では、大手スーパーマーケットの一部においても、サービスを超えたホスピタリティを従業員の接客に求め始めている。今までマニュアルに従ったサービスを徹底するだけで終わっていたコンビニ業界ですら、サービスを超えたホスピタリティを声高に言い始めたのである。

サービスもホスピタリティも同じことではないか!と考えられがちであるが、サービスとホスピタリティは、全く違った関係性にある。サービスは顧客との関係正を主従関係においているのに比べ、ホスピタリティは対等な関係性の上に成り立つのである。つまり、サービスを提供するという事は、提供側が顧客の『奴隷』的立場に終始するのであり、逆にホスピタリティは対等な立場の上における専門性の提供、心からのおもてなしを提供する点で、全く違ったものと言える。

良く商売的にサービスするという事は、お客様の得になるモノを言うことがある。サービス品とかおまけとかいう物がそれにあたる。ホスピタリティは前項にも述べたように、相手を尊重し想うこころであり目に見えないものである。ちょっとした優しい配慮であったり、相手をリラックスさせ心から安心できる言葉かけであったり、また、相手の求める声なきニーズを察知して満足感を与えることがホスピタリティである。

僕は認知症の人を介護する上で、このホスピタリティが今後更に求められていくものと考えている。介護を施すことをサービスの提供という。僕は、このサービスの提供って言葉で介護保険を語った行政も不覚であったと思っている。そして第二に行政は、すべてのサービスをマニュアル化させることに重点を置いた。これも又、不覚にもマニュアルに従った画一的介護を生み出す元凶となった。大体から、認知症の人の不安な感情を支援するにマニュアルで対応すること自体不可能である。人間千差万別、いろいろな人が色々な生活様式と文化を持って、一人として同じ人間はいないように、認知症の人の抱える諸問題はマニュアルで補えるほど簡単ではないのである。

人が病で苦しむとき、少しでも病を治療し回復させるのがホスピタル。そして、重篤な状態となり医療だけでは不足する癒しを提供するのがホスピス。そう考えると、ホスピタリティの語源がどこから来ているのか理解できるはずだ。そして、その言葉の意味も理解できるはずだ。

認知症の人は、無能な人間と違う。行動、言葉、知能、感情、精神のすべてを失ってしまったわけでもない。記憶に障害を抱えていたとしても、すべての記憶を失うわけでもない。言葉や過去の思い出や、残っている記憶も多くある。ただ、断片的な記憶が喪失されることによって、それまで出来ていたことが出来にくくなったり、知っている人の顔を忘れてしまっている。そんな自分自身の変化に不安な気持ちに襲われ、それを自分自身の力では、なんとも改善することができない状態。それを認知症と言っている。だから、欠けている記憶を補うことで、その人が思い出すことが出来なくても、次の行動に進むことができるわけで、そこに存在した不安な気持ちは解消される。このようなちょっとした支援を行うのが、われわれ専門職の仕事である。相手の必要とするものを察知して、そこにソッと手を差し伸べる。または、代わりに橋渡しをしてあげることで、その人が生きることができる。我々は医者ではないので、認知症の人の根本を治療する事は出来ない。しかし、援助することはできる。これが、以前にも書いた、認知症の人を面で支える、生活と言う面で支える行為である。

相手を尊重し、相手を思う気持ち、そっと手を差し伸べる。これらすべてがホスピタリティである。マニュアル本には載っていない介護の基本である。

2013/3/22
悲しさの尺度

またひとつ隣のお店が閉鎖した。今月の第三日曜を最終日として9年間の営業を終えた店がある。若者だけではなく、高齢者も訪れる大手娯楽施設の一店舗の閉鎖である。うちの太陽の家は、鈴鹿の中でも商業地域に存在し、近隣の事業所には全国ネットの大手量販店から飲食店が軒を連ねている環境下にある。今回閉鎖する事業所は、うちの太陽の家が建ちあがるころと時を同じくして、新たに開発された地域に設立された。うちのグループホームの利用者も、散歩途中に中を覗き込んだり、そこに働く人と会話したりと、わずかではあるが関係性を持っていた。事業形態は違えども、多額の経費をもって一つの店舗を開店させ運営することは、事業主にとって大きな勝負の時でもあり、そんな経費と労力を注ぎ込んできた事業所が閉鎖されるということは、非常に心痛い、さみしいものがある。

特にこの店は、太陽の家に一番近く、夜も遅くまで駐車場に明かりがともり、それなりに安心できる環境の維持に一役を担っていた。それが、閉店以降、駐車場に明かりがともることなく、建物も暗く、エリア全体が薄暗く妙に治安の不安定さを感じるような状況となりつつある。まあ、治安の問題は別の機会に話をするにして、今回は、そこで店舗の最後の片づけを行っている従業員らしき若者たちの話を書きたい。

事業所が閉鎖された痛みも苦痛も感じられない、とても明るく楽しげな後片付けの様子を見つめながら、自分の関わる事業所の最後という心理というか、悲しみの尺度ってものに?(はてな)を感じてしまった。経営者でなければ、一店舗を閉鎖するさみしさは感じられないのだろうか?所詮、給料で動く従業員にとって自分の働く場所の閉鎖に、痛みを感じることはないのか?僕なら、長年仕えてきた店舗が閉鎖する事実に、少なからず自分自身の力の及ばない自責の気持ちがおこるものと感じる。他人が経営する、または全国にたくさん展開するうちの一店舗であっても、それなりに愛着をもって働いてきたはずである。最後の片づけには、それまでお世話になった感謝の気持ちと、そこに描かれた数々の思い出や感動を思い起こして、涙をこらえながらといった場面ではなかろうか・・・その場面で片づけしながら同僚と悪ふざけをしながら、楽しそうに遊び半分な気持ちで最後の業務を遂行することはできない。

 そういえば、過去に幾人もの職員が太陽の家から去って行った。中には喧嘩別れのようなケースもあった。理由はともかく職場から去って行かれ、残される者の気持ちは、去っていくものよりも辛いものである。去っていくものは、新しい職場や環境に対し今までにない未来を想像し、夢をもって去っていくのだから寂しさを感じることは少なかろう。しかし、それにもまして、今の若者たちの心の中に吹く隙間風のような「侘しさ、寂しさ」自体が変化してきているのではないだろうか?関係性の希薄さが言われる時代。個人の関係性だけではなく、人を取り巻く環境も関係性が希薄になって来ているのではないか?現実社会もバーチャルな仮想空間の中のような錯覚の中に若者たちが生きているような気がして仕方ない。

2013/3/22
傾聴のはき違え!

高齢者介護というと「傾聴」をテーマに研修が行われる程、この「傾聴」は対人援助の重要な部分でもある。傾聴とは、相手と同じ目線で、相手のお話を真摯に聞き取る行為であり、そこには相手の言葉を否定しないで聞く姿勢が、キーワードとなる言ってみればスキルの必要な技術でもある。他者の話に夢中になって聞き入ることは、実際には非常に難しい行為でもある。特に相手に対する好意も無ければ、相手に興味もなければ尚の事、真摯に聞き入る市営を維持することは難しい。各種の研修を実施する中で。受講者が講師の言葉に耳を傾けるには、それなりの興味をそそる何かが無ければ、じっと聞いて学ぼうとしてくれない。自分の学びを促進する為という目的があるにも拘らず、聞き入ってくれないのは、講師側の責任と評価されるほどであるから、自分自身が会話に興味や話し手に会話を弾ませるスキルがない限り、高齢者との会話は介護する者にとって苦痛以外何物でもないはずであろう。

 高齢者介護、特に認知症高齢者の介護の現場では繰り返し、繰り返し、エンドレスに話を聞くことが求められている。普通の神経の持ち主には、この繰り返しの話題がつらいはずである。以前に何度も聞いたことのある話題を、さも初めて聞くような素振りで耳を貸す事はつらい。そこに演技することが必要となるからである。相手を傷つけたくない心理は、認知症の人との会話に際し、常に笑顔で文句なしにすべてを受容する姿勢を保ちながら聞き入れる。これも言ってみれば、介護職員の受けることとなる精神的な負荷と言っても差し障りない業務の一部である。

 しかし、このような大変な業務を得意です!という頼もしい介護職員も存在する。傾聴の難しさを説明したようにベテラン職員でも、高齢者の話を上手に聞き入れることは難しいのである。しかし、新人職員や一部のベテランさんの中には、いとも簡単に傾聴をしていると言い切る猛者がいる。もちろん、中には本当に上手に耳を傾けている職員さんも存在するが、大半の職員さんの言う傾聴は本来の傾聴という意味をはき違えているケースが多い。そのような人々は、傾聴ではなく、年寄り相手に世間話に花を咲かせているだけの人が多いのである。さらには、相手にしゃべらせず一方的に自分のペースで言いたいことを話している職員も存在する。年寄りの方が職員の話に傾聴している。そんな逆パターンに、自己満足し、そんな自分を傾聴している風に誤解ばかりでなく、自画自賛する職員にあきれてしまう実態が見受けられる。

 介護職員に専門性も何も見えてこない。前回のブログでも書いたように。ただ単に寄り添い甘えるだけを介護と誤解していたり、話に傾聴するのではなく相手に自分の話を押し付けて満足している低レベルな介護職員の存在にホスピタリティを教える重要性に頭が痛い。

2013/3/21
働くという意味

何にしろ労働とはシンドイものだ。マネイジメントにしろ現場作業にしろ働くことの意味は同じである。職種を問わず、そこに係わりサラリーをもらう以上、責任を全うすることでは、皆同じである。マネイジメントでは、経営責任、管理責任などが求められ、現場で作業する者にとっては協働することによる役割としての責任などが存在する。経営、管理、生産、配送、営業などのいろいろなセクションで働くということは、非常にストレスのかかる行いでもある。週休2日の時代は、5日間の労働ののちに2日間の休暇が与えられる。この2つ日間ってのは、仕事を離れ、自分自身の心身のリフレッシュにつかったり、気分転換のための活動を行ったり、家業や雑務など通所の業務とは違ったやらなくいてはならない事柄を行ったりと、人によって利用の仕方はまちまちである。一週間の5日を精出して心理的なストレスに立ち向かい続け、フウ~と一息つく。そんな休日が一番望まれるわけだが、この休日の使い方が若者にとっては、今一つ検討する余地がありそうだと考える。

それは、自分の休日を自分のために使うことに何ら異論はないが、この二日間に自分自身の全エネルギーを使い果たし、週明けの出勤日は逆に疲れ切って出勤するというのは如何なものか?と思うわけである。何を主体とするかで変わる問題ではある。プライベートな時間を人生の一番重要な部分とする以上、仕事が二次的なモノになっても仕方ない。という考え方もあろう。逆に仕事が生き甲斐の者にしてみれば、休日に自宅で何もすることなく無駄に時間を過ごすことを良しとしないケースも、わずかながら存在する。この両方ともに、もう少し働くという意味について考えてもらいたいというのが、私の本音である。

何故なら、両者ともに会社または事業所にとって、長い目で見たときにプラスに作用していかないからである。プライベート重視型は、生きるための仕事という理解が欠けている点、非常にさみしい限りの思いである。また、仕事オンリーの人物の場合は、仕事に対する忠誠心には感謝はするが、そのような半拘束的思考は、今の時代の企業人としての柔軟性に欠けるのではないか?

遊びばかりではなく、遊びを仕事に生かすことのできる柔軟なものの考え方。それを無視して今の企業は成長していかない。高齢者福祉も同様である。高齢者の事ばかりに集中し、寝ても覚めても年寄りの事ばかりで、カチコチの石頭のように凝り固まった思考心理では、拡大する高齢者のニーズを充足するには不向きではないか。また逆に遊び中心では、業務で必要とされる専門性の面で、偏りが際立つ一本調子の介護になりはしないだろうか?

働くこと。そこには精神、身体ともに健康であることが一番重要であり、それに伴い新しいものの考え方、複眼的な発想、多面的な視点といった柔軟な意識が必要とされるのではないかと考えている。介護に携わる人々に、百聞は一見にしかず! Go for Broke!(当たって砕けろ!)と、声を大にして叫びたい心境となる時がある。


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