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ブログ-施設長の部屋

2020/8/10
終戦から七五年・・・

太平洋戦争を僕は知らない世代である。

終戦から八年後に生まれているからだが

それでも、今のように贅沢な時代ではなかった。

戦後の復興最中であり、まだまだ日本国民は裕福な生活とは言えない時代でもあった。

繁華街では白装束で軍帽をかぶり、松葉杖で支えた身体で募金を募る人もいた。

母が、そんな人たちを『傷痍軍人』と呼び、戦争で怪我をして生活苦のために

街頭で 金銭の施しを求めていた。

戦時中ほどではなかったものの、田舎の百姓の子供のおやつといえば

サツマイモや米菓子やトウモロコシ等の畑でとれるものだけ。

生クリームたっぷりのクリームパフなんて食べたことはなかった。

チョコレートだって、上等な砂糖菓子なんて口には入らなかった。

子供たちは、多かれ少なかれ皆、継ぎはぎのあたった服を着ていた。

毎日、同じ服を着て、袖のところで鼻をぬぐうから、袖口が光っていた。

ゲーム機もないから、遊び道具は自分たち手作り。

木を削ってピストルに似たおもちゃを作り、戦争ごっこをやった。

そのころ流行っていた漫画の主人公の絵が入ったメンコは

田舎では高級な遊び道具で、僕たちは牛乳の厚紙の蓋をつかって

メンコ遊びをしていた。

戦後八年も、まだまだ日本の社会は発展途上国の様相であり

急激に社会が発展し始めるには、終戦から二〇年の年月がかかった。

本当に貧乏で、何もない不便な時代だったが

それでも、子供時代は楽しかった。

皆が共に貧乏だから、貧乏でも何もなくても恥ずかしくなかった。

テレビも、冷蔵庫も、車なんてめっそうもない。

そんな時代を過ごして、六〇数年がたって

自分の生活も随分と近代的になり、裕福になった。

でも、まだ何かを今でも求め、探して生きている。

人間てのは、どこまで行っても欲深いものだ。

この欲深さと併せて、生きることへの執着も果てしなく続く。

 


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