写真のよしず一つとっても、立てかけた人の性格がみえるように思う。性格が良い、悪いではなく、その人の几帳面さが如実に表れるのが、こう言う何でも無い行為にその人の性格が見え隠れするのだから、意外とおろそかにはできない点かもしれないと真剣に考えてしまう。以前、女房と論議したテーマに繋がっていくのだが、介護の現場で神経のこまやかさや几帳面さが、良い方向に作用する面と、悪い方向に作用する面の両面を抱えている!と話が盛りあがった。良い面とは、言わずと知れた介護の現場での「気づき」へのつながりを期待できる。毎日の変動の激しい高齢者の体調、精神の管理に置いて、微妙な変化やゆらぎの早期発見は、その要介護者のADLやQOLの維持にとって、とても大切で重要な課題である。そのような重要な場面で介護する側のドンカンで無神経さが要因として、重要なサインを見逃してしまうとすれば、それは介護の現場で、あってはならない問題だろう。逆に悪い方向に作用する面としては、その几帳面さが介護者の精神並びに肉体の不調につながり易い点である。几帳面で神経質な性格は、色々な高齢者に細かな神経を使う。そればかりではないが、その事が結果的にストレス又は極端な場合、内臓臓器の疾患に発展する可能性も含んでいる。確かな医療上のエビデンスも無いので何とも言いきるのは難しいが、それでも精神的ストレスが心身に与える影響は、全く否定できるわけでもない。
以上の点から、それでは何が良いのか?言いきれないところが難しい点ではあるが、人間として、介護者として、求められる点は、やはり要介護者に寄り添った介護への視点を維持し、そのニーズの汲み取り枠を拡大していく姿勢は確保し、それでいて自分自身がストレスでいっぱいパイになり、結果的に負けてしまうことに繋がらないような適当さも求められるのである。非常に使い分けの難しい、高度な対面技術を求められ、自分の精神コントロールまでも極限で必要とされる、非常に高度なテクニックとケアを必要とされているわけだ。
介護の現場に目を向けてくれる若い介護職員さんには、単に爺さん婆さんが好きだから!という安易な気持ちだけで仕事は続けてほしくは無い。この世界に入るきっかけとしては良い。しかし、その気持ちだけでは、長期間の介護を継続することは困難である。僕が考える介護職に一番重要な課題として「 自己覚知 」を強く強く訴えたい。職員の思い込み、勘違い、スキル不足や人生経験不足など全てに置いて、介護の現場では重要なテーマであり、常にそれらのテーマについて真摯に自分自身を律し管理でき、不足に対しては補う継続的姿勢が求められている。
よしず一つの立てかけ方をもって、ここまで話が飛躍するには、僕はそれなりの気持ちの持ち方が介護の現場には必要と考え、重要視している結果と判断してもらいたい。