「トイレ」だけでは、何お話しか分からないですよね・・・
実は、うちのもう一つの認知症グループホームでのトイレにまつわるお話しです。
認知症の女性高齢者。要介護3。
この人の癖は、トイレに入ると用を足してなくても、最低5回、水を流す。
そして、記憶の障害からトイレに頻繁に行く。
先日は夜間を通して数えると69回のトイレに行った。
単純に24時間で割り算してみると、一時間に2.76回、トイレに通ったこととなる。
勿論、この間、睡眠時間も多少なりともあるので、覚醒時のトイレ回数は非常に多い。
さて、トイレに行って、一度フラッシュすると、どれくらいの水を流すこととなるのか?
一説によると一回の大便を流すのに15リットルの水を使うらしい。
最近の新しい水洗トイレに関して言えば、かなり改善されてきて、一回に5リットル程度まで少なくなってきているようだ。
それでも、69回の排尿、排便回数×5リットルは、345リットルの水を流したこととなる。
そして、この人が用もないのにトイレの中で5回フラッシュするとなれば、345リットルを5倍しなければならない。
その量実に1725リットル。
これが認知症ケアの基本にあるわけです。
水ももったいない。でも、その人に制限を加える事も出来ない。
もちろん、トイレに通う前に気をそがせるための働きかけも行っている。
しかし、本人さんは、先にトイレ!と言い続けて、事が進まない。
こんなやり取りを毎日、認知症グループホームでは行っています。
認知症となる人が増える!と叫ばれ、地域支援の輪を膨らませ
いろいろな支援体制の拡充と拡大を目指してきた。
今は、そのような地域資源の和を元に、地域共生社会の構築と叫ばれる時代である。
さて、そのような地域の中で、まずは認知症の予防は予てよりの課題であり
不老長寿の妙薬の開発以上に喫緊の問題として社会全体の大きな目標でもある。
認知症を根本的に根治する薬の開発は期待薄であり、社会全体には認知症にならないことに対する
諦めの意識の方が高まりつつある。その証として、認知症の保険が、急激に販売を伸ばしているそうだ。
さて、本当に認知症は予防できないのか?については、医学者ではない自分が言うべきことではないものの
現状では認知症は予防することは困難であると考えている。
この理由として、人の寿命の延伸が大きく影響している。医学の進歩と国民皆保険制度によって
国民全体が医療と密接に結びつき、手厚い看護が行われることとなり
同時にそれまでの人の加齢に伴った死に至る病(例えば癌など)を乗り越えてしまった。
それにより平均寿命は延伸され、そのことによって老衰のような臓器の経年的劣化(・・・?)くらいしか
死ぬ理由がなくなってしまったというのが現実なのだ。
この寿命の延伸の過程において、脳細胞の器質的変化がおこり
人々は認知症を発症していく。この流れは、人の寿命が延びれば延びるほど
傾斜はきつくなり、高齢者の認知症はほぼすべての人において
認知症となるリスクを抱えているといえる。
言うなれば、高齢化は同時に脳の衰退が起こることは、逆に言えば自然の現象である。
このように認知症は根治出来ないわけで、そのような社会の中で生きなければならない自分たちは
今後、認知症となっても、その認知s機能の障害が生活の障害とならないよう支援することが必須となる。
地域連携、共生社会の構築とは、そのような支援体制をつくることと僕は理解している。
まずは、人が90歳を超えて長生きする世の中には、老衰で死ぬのと同じように認知症となってしまう。
そのことを全ての人が理解する事が重要となる。
認知症ともなると今まで出来ていたことが出来にくくなるのですね。
だから本人にとっては、なんだか最近、何が何か分からなくなってきた!と言う発言が増えてくるのです。
まずは考えがまとまらない。いつものように色々な事を思うことはあっても
それを整理しながら考え、回答を導き出すことが出来にくくなる。
そして、同時に同じことを何度も考えてはいるけれど、思考が堂々めぐりしているだけの状態が続く。
そうこうしているうちに、最初に頭に浮かんだことが何だったのか?を忘れてしまう。
つまりは、悩みごとの種を忘れ、今度は新たに悩みごと事態を探し始める。
この繰り返しによって、脈絡もないトンチンカンな話をし始める。
周囲の者にとっては、その人の一番の困りごとを察してあげる事が難しくなる。
回答のないパズルのようなもので、何を考えてよいのか?何を解決したいのか?
このような状態に認知症の人の頭の中は混乱が続くのです。
これらのことから、認知症の人は集中して物事に取り組むことが出来にくくなることはご理解いただけただろうか?
筋道を立てて物事を理解するためには、なるべく単純に、明確な言葉で、一つ一つ細かく分けて説明することで
これらの混乱や集中力の減衰には対応できるはずです。
とにかく、短気は損気!気長にお相手してみましょう!
http://taiyo-ie.com/blog/332.html |
ときどき、この太陽の家のホームページのアクセス集計を確認する時があるのですが
色々な人が、毎日、このホームページを閲覧して下っているわけです。
そして、その閲覧も、どのページを見て頂いているかが気になるところで
私自身、閲覧ページを読んでみることがあります。
その中で、ちょうど私が相談援助業務の実習に市内の知的障害者施設でお世話になっていた頃のブログに遭遇したのです。
十数年前に自分が書いたブログを読んで、今の自分が忘れていたことを
蘇らせてもらうこととなりました。
あの頃は、こんなことを思っていたんだ!と驚き、そして、その時を思い浮かべて
ウルウルしたり・・・
あれから随分と時間が経過して、自分の考え方も変わったように思えて
逆に非常に寂しくも、懐かしくも感じてしまいました。
あの当時お世話になった人たちに、随分とご無沙汰してしまっています。
この業界には入り、ホームページを立ち上げて以来、ずっと書き溜めたブログ。
時には読み返すことも必要ですね!
認知症は、今では多くの人の理解が進み、昔の様に認知症である家族をひた隠しにすることもなく
今までと同じ様に在宅生活を継続できる世の中人ありつつあります。
認知症ってのがポピュラーな症状であり、加齢に伴い誰にでも発症する可能性あることが知られ
以前ほど、認知症という者に対して恥ずかしいと思うことも少なくなってきましたね。
そうなんです、認知症だからと言って、家族が恥ずかしがることは無いですし
地域社会にご迷惑をお掛けするわけでもないのですから、いたって普通の生活を続けてもらえれば良いのです。
さてと、しかしながら、世間に対する気持ちだけではなく、ご本人に関する家族の気持ちってのは別問題として
場面によっては、家族の精神的負担は非常に大きなものがあります。
例えば、意思の疎通が計りづらくなり、今までの役割分担が持ちにくくなることや、
家族のはずなのに、家族の認識が崩れてしまったり、幻視、幻覚、幻聴などの訴えが増え
家族には見えないものが、その人に見えたりすることもあります。
全てにおいて、今までと違う、何かが変わった!と言う場面に
家族として将来的な不安感にさいなまれて、夜も満足に眠れないこともしばしば。
このような事が続くと、認知症の当事者よりも先に家族の精神状態が滅入ってしまいます。
私の父が認知症であることは知りつつも、一緒に暮らしていなかったことから
その当時、父を介護していた母のストレスには、それほど気がついてはいなかったのですね。
今思えば、あの頃の母の受けていたストレスってのは、かなり大きなものだったんだろうな!と
今思えば悔やまれます。
認知症の人を抱える家族の気持ち、そこには他者からは計り知れない苦労が伴うようです。
社会全体で更なる理解を示して頂き、共に支える地域でありたい。
その役割を少しでも担いたいと考えている次第です。
人間、誰しも歳をとるのですね。
どんなに社会的に立派な人でも、どんなにも頭良い学者さんでも歳をとります。
こんな自分も老けてきました!(笑)
髪の毛が白くなってきます。
目がかすみます!
階段上るたびに膝関節が痛みます!
排尿に時間がかかります!
耳が聞こえにくくなります。
そして何より、愚痴っぽくなります。
誰も好き好んで年齢を重ねるわけではないのですが
知らないうちに高齢者とよばれる分類に仕分けられてしまいます。
今はまだ、かろうじて自分の身体の全てのバランスは保ててますが
この中の一つでもバランスが崩れてしまうと、それを引き金に色々な部分の調子が悪くなります。
この状況をフレイルといいます。俗にいう”虚弱”ですが、
私たちが常に健康寿命の延伸を目指している現状、
要介護の認定を受けている人たちも共にフレイルに陥らないよう
気持ちだけは元気で、若々しい毎日を目指したいですね。
認知症ってのは、 中核症状と行動心理症状という二つの病態に大きく分けることができます。
その中で中核症状とは、脳の病変による認知機能の低下から引き起こされるもので、理解力・判断力の低下、
記憶障害、見当識障害、遂行機能障害や失語・失行・失認といった症状を指します。
程度の差はあれど認知症であれば必ず起こりうる症状で、進行とともに徐々に重くなっていきます。
行動心理症状は、環境やお薬、対応するケアの質によって出現の頻度や形は変化しますし、全く症状の出ない場合もあります。
しかし、前にも書いたように中核症状は、必ず全ての認知症の人に出現する病態であり、そのような人の最終エンドステージってのは
素人の方々には想像しにくい場面ではないかと思います。
私の父も重度の認知症状となってうちのグループホームで息を引き取りました。
昨日、NHKBS1で夜の10時頃に放送された番組を観て、非常に感動したのですが
岐阜の小笠原先生の在宅医療の現場に関するドキュメンタリー番組が放送されていました。
その中で、小笠原先生はご家族の最終段階でのかかわり方について
最後の瞬間を看取ることを目標とせず、そこに至るまでの段階の接し方を大事にすること!
と言われていました。
死を迎える間際には、認知症であっても無くても、不安なものです。
そのような瞬間に、信頼できる人、頼りにする人が顔を見せてくれることの喜びを第一に
与えてあげて欲しいと言われていました。
新型コロナ感染症によって、認知症の人を取り巻く家族の面会の自由は突然疎外されてしまいがちです。
コロナを正しく恐れ、出来る限り家族が関われる時間をもって、幸せな最期を迎えさせてあげる。
そのために私たちは努力する。となりたいものです。
日本は、他諸国に比べて平和で安全な国であると言われている。
確かに、毎日、殺人事件のニュース報道はあるものの、銃の乱射事件ってのは発生しない。
高齢者を目がけた詐欺事件は多いが、夜間でも比較的安全に路上を歩くことはできる。
ところが、一旦、車に乗ると人が変わるのが日本人。
女性ドライバーも、男性ドライバーも、ハンドル握ると人が変わる。
とにかく狂暴になる!(笑)
私自身も長年運転している中で、ここ数年の運転者のマナーの劣化が気になりつつある。
特に緊急自動車に対する配慮である
交差点での緊急自動車との遭遇には、ほとほと日本人であることを恥じてしまう。
大半の車が道を譲らない。交差点での停止を守らない。
緊急自動車がサイレン鳴らし、現場に急行するというにも関わらず
一般車両は自分の道を急ぐ。これって、どういう心理なのよ??といつも疑問に思い、一人憤慨している。
救急車を優先に考える姿勢が育っていない国だから、同様に救急車をタクシーがわりに使ってしまう意識が存在する。
命に対する考え方が、国民の潜在的意識に欠けているような気がする。
救急車(緊急車両)が近づいてきたら、とにかく道を譲りましょう!
なるべくスムーズに緊急性を発揮できるよう協力しましょう!!
ここにアメリカの救急車の画像を挿入しておきます。あちらのお国柄かもしれないが
とにかく騒々しいのがアメリカの救急車。全てを蹴散らして先を急ぐ。そんなイメージが強いのですが
僕は、それでよいと考えています。まずは命を救う!そのための車両ですから・・・