太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2012/8/31
ファン心理

巨人に村田とエドガーはいらない! 巨人を応援するファンの一人として(と言うと大げさだが)本当に、この二人、ええ加減にせいよ!って叫びたい。本来なら、巨人の優勝にもっと貢献できる予定で迎え入れたはずだろうに、今シーズは最初から絶不調の連続。打率も伸び悩み、ここぞというところの一発が出ない。昨日までの中日との三連戦、中日の外国人助っ人ピッチャの球を打ちあぐねて、三連戦の二試合を落とす不始末。ファンってのは、いくら勝ちが続いていようと、容赦ない。そう!常にチームは勝利を収めないといけないのである。

 本来なら、巨人の独走態勢ってのは、野球自体をつまらなくしてしまうわけで、もっともっと接戦の方がゲーム観戦としては面白いし、それなりに応援に醍醐味を感じるのである。だから、状態としては、二位、中日がもう少し頑張ってゲーム差をなくすほうが面白い。しかしファン心理としては、野球のだいご味より、優勝へのステップアップを切に望んでしまうところが矛盾しているのである。

 しかし、100歩譲ったとしても村田とエドガーには、なんとか踏ん張って結果を残してほしい。高給で雇われている選手であり、それなりに期待されている以上、見せ場に感動を与えることができるよう、頑張ってほしいものである。

2012/8/24
予想以上の増加が見込まれる将来の認知症高齢者

今日のニュースで取り上げられていた認知症高齢者の数についてであるが、以前の厚生労働省の読みは団塊の世代が高齢となり1号保険じゃとなる2025年ころは、認知症の高齢者は全国で350万人程度を予測していたが、今回、その予想をはるかに上回る430万人規模の認知症高齢者数が発表されたのである。

先日、私の所属する認知症高齢者の協議会で、認知症高齢者をもっと理解しようとパネルディスカッションが行われたばかりである。認知症は2004年までは痴呆やボケ老人と呼ばれていた老人特有の病気で、なんとも対処の方法がない、困った状態として恐れられてきた。それこそ、対応できる病院は精神病院といった、どちらかかと言えば精神に異常をきたした困った存在として扱われてきた病気である。

それから数十年が経過し、いろいろな研究が行われ認知症と名称変換も実施され、ノーマライゼーションの理念のもと、今では「その人なりの生き方支援」「自立支援」「見守り」「バリデーション」など沢山の援助方法があみ出され、支援方法によっては認知症の諸症状に沿った支援が可能となってきた。言ってみれば「適切な支援」を実施することで、認知症を患っていても「普通」の生活を継続できるところまで変わってきた。

人間が認知症を患うことを予防したり、それらの諸症状を遅らせたりという面でも先進医療との連携で少なからず可能となってきたのであるが、それでも、いろいろな生活環境やその人の性格もあって認知症を患う人は、どんどんと増加しているのである。

これも医療の進歩が大きく関与しているともいえるが、要するに人が長生きするようになってきた。つまり、人間として年齢の積み重ねに応じて、多かれ少なかれ体のあらゆる部位に支障をきたすわけだが、言ってみれば「故障」の始まる年齢まで生きることが出来る時代となったといえるのではないか。昔の日本は栄養状態も良くなく、生きる環境は劣悪で、おまけに医療技術も進んでいない中では、人の命は短命であった。しかし、定年60歳と言いながらも、今の60歳は若い。まだまだ働ける情痴あの人が多い。かく言う自分自身もあと一年で還暦という年代でありながら、今なお真っ赤のフェラーリに憧れ、短パンに柄シャツきて今風のブレスレットをつけて「ちょい悪オヤジ」を気取っている。癌だ、結核だ!ヘルニアだ!等と言いつつ、病院へ行けば、痛い思いはすれど、ちょこっと我慢すれば勝てない病気はないほどの時代である。当然、このまま年齢を重ねていけば、それなりの健康意識の高まりの中で患うところと言えば、「脳」に限定されてしまうのも理解できる。

さて、そんなわけで、この僕も恐らく認知症の爺さんとなってしまのだろうが、そこで問題となるのが、今のような自制心(持ってないかもしれないけど・・・)でブレーキをかけている、とんでもない行動が表面化することである。ファッションが大好きで、派手なスポーツカーに憧れる自分は、ひょっとすると年齢を無視した無茶苦茶なファッションで、如何にも格好良いつもりで街の中をフラフラするかもしれない。世間では、この行為を「徘徊」と呼び、担当のケアマネには、叱られ、家族には迷子防止のために「GPS」を縫い付けた服を着せられ、あまりにひどい徘徊には拘束服を着せられ、ベッドに縛り付けられるかもしれない。

きっと僕は大声あげて自己主張することだろう!「やめてくれ!」「俺は正気や!」などと声の限り叫び、通りすがりのすべての人に自分を解放するよう懇願するだろう。すると、この行為を社会は「暴言」と呼び、今度は精神安定剤を盛り込んだ食事を食わされることとなる。過度な薬剤依存は行動を抑制するには効果が期待できる。しかし、そのことで僕の身体機能は、日増しに低下し、暴言や暴行がなくなるころには、体中の筋肉がやせ衰え、それだけではなく、僕の精神状態も気力を喪失し、人間としての人格の崩壊にまで追い込まれていることだろう。

人格の崩壊は、そのまま食べる気力、生きる気力まで奪い去り、廃人となって最終的には、口からの栄養摂取が出来なくなり体中に栄養チューブなるものが入れられ、食欲や思考を無視したドロドロの高カロリー栄養剤なるものを流し込まれるのである。

この認知症の高齢者数もそうであるが、昨夜のNHKでは、人の尊厳死について考えさせられる報道もあった。何のために生き、何のために治療するのか?認知症となっても普通のような生活ができるなら生きていたい。誰でもいいから横に寄り添ってくれて、僕の不足する部分を補ってくれて生活が成り立つならそれでいい。しかし、縛られ、くくられ、無理矢理に栄養補給を実施されながら生きることはしたくない。僕は、認知症高齢者が増える以上、認知症をもっともっと理解して適切な支援を提供できる人を育てていきたい。そう強く感じた朝だった。

2012/8/24
ETCをすり抜ける車両

今日は朝から名古屋に来ている。名古屋インター近所の動物病院へうちのペットちゃんの診察のために、わざわざ鈴鹿から高速にのってやってきた。昔に比べると名古屋、特に東山や星が丘なんて、チョイッと軽い気分で来れるのも高速道路が拡充、整備されてきたからである。

さて、そんな高速道路へのアプローチに、最近ではETCカードを利用する車両のほうが多いくらい、大半の車両はETCを搭載しノンストップで高速道路のゲートをくぐる。そんな今朝、僕の前を走る商用車の一台がカードの挿入忘れか、ゲートでもたついてしまった。次に続く僕も前が止まってしまう以上進めない。仕方なく、その車両の後ろで一旦停車、様子を見てると車両の運転手、鞄の中をまさぐる様子、明らかに慌てふためいて、急いで事の収支をバランスとろうと焦っている様子である。しかし、ゲートは閉じたまま。時間ばかりが経過していく中で、僕自身、前にも後ろにも進めずに焦り始めたころ、彼は何を思ったのか閉じたゲートの間をすり抜けるように前進していった。

ETCのゲートは改良に改良を重ねられ、衝突事故を回避するためにバーとバーの間に若干の隙間が持たれているのだ。僕もじっくりとゲートを見たことがなかったが、軽車両クラスのボディー幅なら、ゲートのバーの隙間を通り抜けることが出来るようだ。でも、高速は入口のゲートを未承認で通過して出口で困らないのかなあ~

2012/8/20
国際社会における日本人

韓国と領有権を争う竹島、中国とは尖閣諸島、ロシアとは北方領土。島国の日本は国としての領域の線引きが非常に難しい地理的要素を抱え苦悩している。オスプレーの配備ではアメリカと安全性の面で不協和音が響いてくる。8月15日、67回目の終戦記念日を迎え、テレビニュースの街頭インタビューに96歳のかくしゃくとした女性が答えていた。「もっともっと、話し合わなければ・・・」

それこそ榎本博明氏の「すみません」の国という本に書かれているとおり、ホンネとタテマエの二重構造の国、日本らしくその場を無難にしのぐために真実の追及や責任の糾弾を良しとしない国民性がそのまま表面化しているようである。日本の外交政策は自民も民主も同じ。主義主張が違っても国民性は同じなのか???と笑えてくる。

 そんな二重構造の社会が、ファッション、食品や生活文化の欧米化に伴い、日本古来の文化が崩壊しかけている。中国の活動家の尖閣諸島への上陸に次いで、今度は日本の地方議員達の上陸騒動。中国の反日感情に油を注ぐ形となった一部の日本人の行動ではあるが、このまま直接戦争に発展する危険性は少ないというものの、このまま感情のもつれを放置したままの国際関係に、海外旅行、特にアジア圏への旅行に多少の不安が伴うよね。韓国歴史ドラマにはまり狂って、一度は韓国の文化財を訪問してみたいと願っている僕には、とっても不安な要素ではある。

 過去に起こった不幸な出来事。人間生きる上でいろいろな場面、状況に遭遇し、それらのすべてにベストを尽くし、つくし切れない不幸に対する決算と言うか、清算を如何につけるか・・・その点が思いの外難しいのが人間であるようだ。

2012/8/16
高齢者の自立支援

介護保険財政が破綻しかかる状況が近くなると、と言うわけでもないだろうが近頃は「自立支援」を大きく叫ぶようになった。その人が在宅で、それまでのように普通に暮らせるように支援するのが自立支援の一つの目標でもある。財政事情が潤沢(潤うまで行かなくとも)でサービス量が乏しい場面では、施設入所で介護負担の軽減を目指していたが、これだけサービス量が増加することで、それらすべてのサービス量を補えるほどの財政力がなければ、当然のごとく事業所への給付額を減額するか、サービス利用を控えさすか、いずれかの選択肢を考えるのは安直ではあるが理解できるステップであろう。

先ごろの情報では、福祉関連事業の中でも通所介護事業所がダントツでサービス供給量を増加させているらしい。次いで訪問介護事業所が抜きんでているようであり、この状況にはその内に行政サイドから何らかの変更や改善のメスがはいるだろう!と情報筋は説いている。

 まあ、そんなキナ臭い話題ではなく、純粋に自立支援にむけて、我々介護を担う者たちが何ができるかを考えてみたい。

 自立支援と言えども、自立を促す前に本人並びに家族の要望も精査しなければ、やすやすと自立支援の掛け声に乗せられる訳ではない。そして、それに合わせて直接処遇者である介護職員の質的要素も考慮しなければいけない。つまりは、そう簡単に号令に従い右から左にと方向転換は出来ないというわけである。もちろん、現実問題として、我々事業者としての「できません」は、そのまま事業継続を認めません!になるだけで、何としても資質の向上とスキルアップは達成せねばならない。従って、いつの日にか、我々通所介護事業所向け行政の指針が入り込むときには、悪戦苦闘と介護職員への過剰な指示と教育を已む無くされてしまうわけである。

 さて、それでは在宅生活を可能とする自立支援とは、どのようなことを必要とするのか?そこには、第一回の介護保険制度の見直しの時に慌てふためき、事業所の頭を悩ました「筋トレ」のように、冗談抜きで死に際に花を咲かそうとする爺さん、婆さん相手に筋力アップのトレーニングを検討しなければいけなくなるのかもしれない。そろそろ老人の域に入ろうかとする自分自身でさえ、健康管理のためにジムに通うことを真剣に考えながらも、未だに達成できていないのに、この僕をはるかに上回る年齢の人々に、さっさと筋トレを施して大丈夫か?と問いたくなる。

 それでは、筋トレに楽しみを加えて、参加することに意義があるオリンピック理念を採用して、やったふりして時間だけ費やすことで何の自立支援ができよう・・・。音楽を採用して、口腔体操を兼ねて、ついでに生活不活発病とストレス発散をもくろんで、毎回のデイサービス利用時にはカラオケを施す。ついでに何をすればよいのか分からないので、レクリエーションを採用。レクに機能訓練を併せ持たせれば一挙両得!とばかりにレクを始める。介護を受けに来ているのか?暇な時間をつぶしに来てるのか?自立した生活のためにトレーニングに来てるのか?どんな目的を持って通所介護を利用しているのかも分からない。そんな通所介護事業所は、どんどん勝手に潰れていきなさい・・・とばかりに面倒は見てくれない社会。

さあ、私たち太陽の家が、個の事業所を選んでくれている要介護者のために何をしてあげることができるのか?これを機会にもう一度本人の希望、家族の希望を確認しながら可能なサービスを検討することから始めてみたらどうか?!

 レクの幅が狭いやら道具を持ち合わせていないやら、出来ない理由づけばかりに目を向けず出来ることを考えることをはじめないと、いよいよ行政の施策が変更されてからでは遅すぎる。

2012/8/16
介護保険というサービス

介護保険制度は両刃の剣である!良い部分も悪い部分もある。これは制度が悪いのではなく、使う側の考え方に依存する部分で良くもなれば、悪くもなる。そのような両局面を持ち合わせている。同じようにバリアフリー構造も両局面を持ち合わせている。何度もブログで書くように、制度利用が生活環境をよくできる反面、制度利用が利用者の依存心や甘えを助長するデメリットをもっている。バリアフリー構造は、足を上げずに転倒の危険性なく歩行できる反面、その楽な歩行姿勢を継続することで筋力の低下を招き足の上げ下げに支障をきたすケースが最近多い。

通所介護サービスを長年実践するなかで、最近特に身体的能力に低下をきたしているように感じる。福祉用具レンタルが安価に実施できる環境は、車いす利用を促進し、必要以上に歩行不能な高齢者を作ることとなり、スリーモーター付き電動ベッドの改良により、自分で寝返りを打たなくても良くなり、重度な寝たきり高齢者を生んではいないか?!

なんでも便利になることは素晴らしいことで、不自由だった障害を乗り越え、健常だったころに近い生活に戻すこともできるようになり、障碍者にとって福祉用具の利用は、自分の足や手を取り戻すことに等しい快挙であることに違いはない。しかし、こと高齢者の生活にとって、これらの便利グッズがどれほど効果をもたらしているのか?疑問と思える個所が多いのは私だけの思いだろうか?

自立支援が大きく叫ばれる中、自立支援を促進するための道具によってさらなる介護負担が増える社会を、私たちは無意識のうちに突っ走っているのではないかと思う。

※ このコメントは、実際に福祉用具を利用している高齢者に対する偏見でもなく、利用を阻止する意図もないことは理解していただけると思うが、完璧な福祉国家を目指す我々が、その便利さゆえに自らの生活維持能力を奪ってしまうのであれば、考え者であると感じている。この点をサービスを提供する側、つなぐ側(ケアマネ等)と受ける側が、しっかりと考えて実施しないと不幸なのは利用者本人という状況となる。

2012/8/14
大雨の被害・・・または不注意??

世間全体がお盆休みだというのに、私はデイサービスの送迎運転手。今日も朝一番の8時から送迎1号車をあやつり海側地域を担当。無事に最後の利用者宅まで到着!

 が、しかし、ここで私の不注意による車両スタック。ヤッバッ!と思った時には既に遅し!左前輪がフレームまでズブズブと沈んでしまい、それほど悪あがきはしていなかったが、後輪の両輪もタイヤ半分が埋まる状況。昔は四輪駆動車で悪路走行が大好きで、ジープを含め四駆三台でいろいろな所で遊んだものだが、仕事中に車両スタックは初の体験。至急、事業所に電話連絡し、代替車両を要請し、利用者をまずは事業所へ搬送。後に大型送迎車輛を持ち込み、四駆時代に使いこなした牽引ロープとシャックルを使って救助。

 四駆時代には雪でも泥でも、どんなスタックも一発で救出し、どんな状況でも救出には自信はある。車両重量2トン半を超えるランクルでも一発で救い上げることができる。と自信たっぷりに大型送迎車量に乗り込み、トウロープを板バネにかませ、シャックルでつなぐ。車両をゆっくりと動かしてみて無理なら、少したるみを持って急激な衝撃を加えることで、恐らく何の苦も無く上げることができるだろう・・・一番怖いのが、救助の車両が周辺のぬかるみに足を取られて二重のスタック。出来るだけ舗装路を使っての救出を心がける。場所が狭い路地の中、周りには民家のブロック塀。下手に急加速して無理強いすれば、ブロック塀に衝突も考えられる。

 何だかんだ思いを巡らしながら、特に何も問題なく車両救出劇は終了。跡片づけをして、タイヤで荒らした土地の所有者に詫びを入れ、朝からとても重労働と嫌な汗をかいたスタートとなった。 今後の教訓として新規宅地造成したばかりの地盤は、甘く見ると恐ろしいということを身を持って体験した。と言うわけである。

2012/8/11
局地的大雨・・・

dsc09615.JPG

西日本に局地的大雨の予報通り、今日の午後から雷まじりの大粒の雨が降ってきた。デイサービスの帰宅時間間際の出来事で、送迎担当の私的には、最悪のコンディションとなってまいりました。なにが最悪かと言えば、雨です。これほど大粒の雨だと、車の乗降時に利用者を濡らしてしまうからです。傘なんて役に立ちません。カッパってのが一番良いのですが、利用者分のカッパは準備していません。こんな時は、予備の職員を同情させ、傘を二本で緊急対応。もちろん、傘をさしかける職員は頭からずぶ濡れ。車に乗り込んでエアコンの冷気をあびて、職員が風邪をひく。いずれにせよ、この状況は厄介なものなんですね・・・。

 しかし今の時代は、地球環境的に良いのか悪いのかわからないのですが、随分と舗装された道路や住宅環境の増加で泥まみれになることは少なくなってきました。雨でぬかるんだ泥交じりの庭先を車いすで移動することは、雨に濡れて歩行するよりも煩わしいものです。さすがバリアフリーの世の中。僕の子供の時代から考えれば、随分と様変わりしたものです。

 このところの晴天続きで乾いた大地には、恵みの雨。うちの裏庭に生い茂る植物にも水道の水ではなく、少し潤いをプレゼントって感じでしょうか!そういえば、うちのペット君たち、雷が嫌いでとても怖がるのです。おまけに、ビビりションっていうか、其処ら中でオシッコを漏らしてしまうのですが、今日もフロアーのいたる所でオシッコの輪が広がりそうです。

 

2012/8/9
8月8日のブログ

ここ数日は夜、結構涼しく網戸だけで眠れる気温。エアコンかけっ放し、喉カラカラの状態から脱することができて助かっている。暑い夜は寝苦しい、首筋にじっとりとにじむ様な汗で、夜中に目覚めることがある。しかし、ここ数日の夜は、結構快適な睡眠が確保されているのである。夏さかりの夜には珍しい数日です。

 さて、そんなさわやかな夜には全く関係ないお話であるが、介護と慈善事業の違いについて少し触れてみようと思う。介護の現場では、時々経営者側と職員側との間に摩擦が起きることがある。場合によっては労使問題に発展しかねない非常に難しい局面を含んでおり、下手すれば職員がまとまって退職する危険性を持ち合わせている問題である。簡単に言ってみれば、介護業務の深度の問題である。この問題は、経営者側には、介護の質と量(特に量)を金銭に置き換えて評価していること、逆に職員側はそれらの量や質を満足度と達成感として評価している点で、換算方法の違いから、互いに交わるところは無い問題を相互がぶつけるところから、感情のもつれに発展しやすいデリケートさを含んでいるのである。

 もちろん経営者とて「鬼」ではないし「金の亡者」でもない。社会福祉たるや、何を意味するかは十分に理解している。同時に介護現場の職員とて、すべてを無料奉仕しているつもりはないことは承知の上である。それでも、相互の意思の疎通は図れない状況ってのは、なぜ起こりえるのか?そこに常に存在するのが直接処遇者の感情と、それを管理するだけの関節処遇者の感情の違いが大きく影響を及ぼしている。直接処遇者は、日々の業務の中で生産業の従業員のように決められた工程を実行するだけでなく、そこに要介護者の人生や人間観が関与するからこそ、業務ではないかもしれないが、遠く巡り巡って自分たちの業務関係してくる要因を見つめざるを得ないのである。介護業務がヒューマンサービスと言われる所以である。

 介護職員たちの多くは、業務遂行の中で、要介護者の環境、既往歴、現病を基本データとして取り込み日々の業務に生かして業務を行っている。一人として同じ境遇の人間がいないように、高齢者に限っても同じようにすべての利用者には尊厳すべき「個人」を持って生活しているのである。今の福祉は個人の尊厳を言われ、人格の尊重を重視している。言ってみれば、介護の業界はすべてにおいて、ハンドメイドでありオーダーメイドの社会である。職員は労働者ではなく職人を目指さなければならないのである。専門職であり、同時に職員であることが求められる社会で、なかなか金銭的に境界線を設けることが難しい現状が存在するわけである。

 逆に経営者および管理者の意識として根底に流れるものは、すべてが数値化されている点である。日々、延べ人数、介護報酬額、人件費、運営経費はもちろん、行政指導を受ければ、それ相応のデータを示さなければならない。他者の評価という抽象的なモノが通用しない世界に生きているわけである。ずいぶん昔の洋画でトムクルーズが主演者エイジェントと言う映画があった。アメフトの選手の代理人として、チームに売り込む苦悩と困難を描いたものであるが、その映画の中で黒人選手がトムクルーズ演じるエイジェントに電話で叫ぶのである。「SHOW ME The Money!」。要するにファンの数では飯は食えない!まず『金(契約金)』をみせろ!と叫ぶのである。経営者、管理者はまさしく、この世界に生き、苦悩する毎日である。

 このように住む世界が違う。と言ってしまえば、それに尽きるわけだが、だから関係の改善は望めない!と諦めてしまっては、一番の被害者は、その施設を利用する利用者である。労使間の関係改善と円滑な経営の両立を推進するためには、お互いがお互いの専門性を尊重し合い、それぞれが協働する意識の構築が重要であろう。実際、同じ屋根の下で、共通する課題を掲げ、意識的に共通する現場の環境改善を念頭に働いているわけで、奇しくもお互いの関係は戦場における敵対関係ではないのである。個人情報の保護と尊重という現代風社会通念に阻まれ、同じ職場で働くもの同士も深く同僚を理解していない現状も壁を作る要因となっているからこそ、普段からのコミュニケーションの質と量が大きな課題となってくる。

 まず経営トップは自分の考えを明確に打ち出す事。そしてすべての職員と公平に渡り合うこと。

 常に自分はこのように考えるという方向性を事例を持って分かりやすく、明確に打ち出す。ただし、そこに自慢話を含まないことは言うまでもない。そこに働くすべての人に、まずは自分を開示することが必要である。他人を変えることは困難であるが自分を変えることは比較的簡単にできる利点を生かし、先ずは自分を見つめなおし、職員の方向に歩み寄る姿勢は持ってもらいたいのである。

 今時の若者は!と嘆くよりも、いまどきの若者の良い点を見つけ、その良い部分の成長を促してあげることを望みたい。今、こうやってブログに知ったようなことを書きながらも、自分自身に問いかけ、ブログを公開することでうちの職員には、さらに理解を深めることを約束することで、自分自身をある方向へ無理やりにでも押しやっているわけである。すべてが数字ではない。しかし、数字も重要であり、それによって僕は職員の給料を確保しているのである。この点も理解いただければ、万事がうまくいく!と信じている。

2012/8/6
もう8月6日・・・

67年も前になってしまった広島原爆の日。先日、8月になって直後にブログを更新して、少しのんびりとしてたら、もう世間は6日となっていた。浦島太郎の気分である。今日の新聞紙面に「原爆の日」の活字を探そうにも、大半にオリンピック報道が占め、原爆の日のコメントは、社会面の片隅に小さく書き込まれているだけであった。風化しつつある太平洋戦争や原子爆弾の投下。時代は確実に変わってきている。オリンピックに出場する選手を見てても、我々の時代の人間とは違う、新世代の人間たちを感じてしまうのである。これも加齢という産物なのか?!

 そんなロンドン・オリンピック、日本人は本当にオリンピックがお好きな人種な様だ! 中日新聞の社説にも書かれていた日本人のオリンピック好き。ネット情報によれば、昨日の女子マラソンの視聴率が22%ちょいで、同時刻のNHKの平清盛を食ってしまったそうな・・・。総理大臣がころころ変わり、合わせて国務大臣も七変化のごとく色が変わる日本。あっちにフラフラ、こっちにフラフラと一向に一途な改革は起こりそうにないにもかかわらず、そんな日本でも国際試合の場ともなると、やっぱ日本人選手を応援してしまうわけだ。もちろん、僕だって日本人選手がメダルを逃すと悔しい気持ちになる。ましてや金メダル候補と前評判の高かった選手がこけると、逆に腹立しくなるほど、熱烈な日本人選手びいきである。では、なぜ、それほどまでにオリンピックに期待するのか・・・?

 元来、選手の中で馴染みの選手を探す方が難しいくらい、日本の社会においてアマチュアスポーツ界ってメジャーではないではないか! 北島選手やなでしこジャパンくらいは、最近メディアで紹介されている関係で知名度は高い。しかし、他の選手なんて、それほどスポーツニュースに注目していない一般中年のおっさんにとってみれば、どれもこれも皆同じ。失礼ながら、本当にそんな程度の視聴者の一人でも、やたら日の丸の旗に固執してしまう。オリンピックってのは、魔物が会場に住んでいて、テレビ画面のこちら側には別の魔物が日本人視聴者の心をもてあそんでいるのではないかと思うわけです。韓流ドラマの主人公に恋焦がれている日本人のオバちゃんたちも、オリンピック放送によって韓流ドラマが流されても、黙って受け入れるほどだから、この日本人のオリンピック熱ってのはすごいものなんだと想像できる。

 あと7日。世のオジサン、オバサンの夜更かしも後一週間。一週間が過ぎれば、今度はお盆。世の中はお盆休みと帰省ラッシュの話題で盛り上がるのだろうな!やっぱり、どちらにしても日本人は、群れることが好きなようだ。民族が一丸となってあっちにころころ、こっちにコロコロ・・・みんなが同じ方向に向いてないと安心できない人種なのかもしれない。


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