太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2010/10/14
職員の精神的ストレスについて

太陽の家では、職員の自主的な勉強会やら施設内研修など、スキルアップに向けて色々な『学び』が、誰が始めるでなく自発的に行われ始めた。もちろん、施設内研修は、施設長の依頼で始まったものでは有るが、決して強要したつもりは無い。逆に、私自身が国家資格を取得したことが大きな切っ掛けとなり、職員の中に「負けていられない!」感情が生まれてきたものと非常に歓迎をしているのである。また、職員自体の協働の体制、自覚、協調性などの面においても、非常に良い方向へと進んでいた。

 それが、最近、少し息切れしてきたのか、若干の流れに動脈硬化症状が起きはじめている。介護福祉士の資格取得に燃えていた仲間が退職することとなり、同士の欠落は、そのまま残された職員の「やるき」にストレートに影響を及ぼしているように懸念している。それでも、職員は自分でレクリエーションを研究し、少しずつ前に前進しようとする努力が伺えることが、ささやかながらも職員の前に向けて進もうとする意気込みを感じることができ、救われる一面である。

 介護の仕事は、井戸の中に雪を詰め込む作業のようだ!とよく言われる。尽しても、尽しても、無にかえり、同じことの繰り返しが、職員を疲弊させる。看護の世界は、患者の完治という点で、ある程度の満足感は達成できる業務である。しかしながら高齢者の介護は、この先が期待できない。日増しに全ての機能が低下して、消滅を待つのみである。これは、考えようによっては、非常に遣り甲斐のない、見返りの無い業務に見える。確かに、今日も太陽の家では、ある利用者の行動を落ち着かせる術も無く、幾度も繰り返し、繰り返し、同じ説明を反復するしかない場面があった。ゆったりと説明をすれば理解できる。ただ、其の数分、いや数秒後には、自分の思い通りにならないジレンマから、同じ行為送り返す姿は、まさしく自分の学んできたスキルと知識を疑いたくなるのである。私自身、バリデーションも高齢者の心理学も学んできた専門職としてのプライドをもち業務に従事しているが、それとてこのような状況下では繰り返し同じ説明を話し、本人に理解を求めることしか出来ないのである。

 しかし、ここで一番重要な要として、我々のやるべきことを見失わないことが一番重要である。さて、その我々の遣るべきこととは?何だろうか? それは、この利用者Aさんの物忘れ症を克服し、繰り返し説明しなくとも安定した精神状態を保つこととではなく、其の刹那に、少なくとも話をしている間だけでも、本人が納得し、理解できる説明をはなすことではないかと思うのである。かなりまどろっこしい説明ではあるが、言うなれば、その人の行動をストップさせることではなく、その人が理解不能なために精神的に「迷いや不安」な感情で居る瞬間を、少なくとも繰り返し説明することで、その種運間だけは理由を理解し、本人は納得できるのである。この数秒の瞬間だけでも、その人が安心し、納得してくれているのであれば、それはそれなりに我々の職責を全うしていると考えるべきなんだろう。(詭弁かもしれないが・・・・) 介護職の中には、聞き分けの無い年寄りとして無視するものも居る。または、何度行っても聞き入れることの出来ない認知症高齢者に体罰を加えるものも居るかもしれない。認知症高齢者は、常にそう言った危険性の中で生活をしながらも、少なからず自分の意思と感情を持って行動している。私たちが遣るべき業務は、兎に角、繰り返しにはなるが、認知症高齢者が納得する機会をつくり、其の瞬間を増やしながら、次第に人間関係の中に信頼感を気づきあげていくことではないかと思う。ラポールの形成と呼ばれる信頼関係こそ認知症高齢者の不穏感情の安定におおきく関係してくる。

 説明が回りくどいかもしれない、これらの考えかた次第によっては、高齢者介護の現場において、特に新人職員が被りやすい「精神的ストレス」を制御する術なのであろう!あせらず、高望みせず、見返りを期待せず、それでいてその人らしい人生を全うできるよう支援していける専門性を持った職員に育ってくれるものと信じている。私は、職員に対して、『 自己覚知 』をよく唱える。自分自身を知り、自らを律して責任ある介護を実践できるためにも、まずは自分の出来ること、苦手なことを性格に掴み、それに対して素直な自分で居ることがストレスも虐待も拘束もしない介護に直結するものと信じている。決して綺麗ごとではなく、高齢者にとって、一分、一時間、一日は我々異常に貴重な瞬間なはずである。其の大切な時間を理解できれば、何度も繰り返す苦労なんて、大した時間ではない!と思う。

 職員の精神的なストレス。そうは言うものの、コントロールは困難である。困ったときには、一歩下がって見つめてみること。そして、自分の気持ちを整理して考えること。ちなみに、夜、仕事を外れて酒を飲むことや、好きな音楽を聴くこともストレスの解消には役立つ。しかし、深酒をしても何も解決には至らないことを思い出してほしい。我々の神経は、そんな酒で誤魔化せるほど単純ではない。

2010/10/14
三重県地域密着型サービス協議会 一斉防災訓練

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10月13日(水曜日)、もう昨日のお話になりましたが、太陽の家の加盟する「一般社団法人 三重県地域密着型サービス協議会」では三重県内のグループホーム及び認知症関連施設の一斉防災訓練を実施いたしました。(写真) この企画は、ばらしてしまえば、非常に不謹慎かもしれませんが、以前、東京にて全国グループホーム団体連合会の会合に参加した夜、一部の他府県代表と飲んでいる時に思いつき、そのまま趣意書に書き落とし、会員の皆さんに協力を呼びかけたものです。

目的は、今、この近畿地方では多重型巨大地震の発生が叫ばれ、また近年、連続するグループホームにおける火災によって入居者の皆さんの死亡が問題となっており、私達の協議会としても、火災や風水害との遭遇は、則利用者の命にかかわる大事件であり、何かの手立てを講じなければならないと思う事が発端です。縦に長い三重県。被害の状況も、その施設の立地、環境、また施設の程度によってまちまちのはず。認知症を患う入居者の皆さんを、いかなる災害が起ころうとも、同じ会の事業所の協力を得ることによって、生活を守る事が出来れば最高です。

 社会福祉には「自助」「公助」「共助」という言葉があります。「自助」とは、自分自身で自分を救うこと。「公助」とは、公的機関による援助を言います。「共助」とは、お互いが協力して助け合う事を言います。そして、付け加えるとすれば「互助」が我々の所属する協議会がお互いの知識と力を終結し、お互いの事業所を補い合う、補足しあいながら助け合う姿勢とでも言うべきでしょうか!

 今回の訓練を通じて、もう一つの目的として、グループホームの運営は地域の皆さんの協力がなくして健全な施設運営が困難であると言う点です。確かに、近隣の皆様にも自らの生活を継続していかなければいけないという責務があります。その中で、ちょっとした協力できることも沢山存在するのですが、そのちょっとした小さな協力が、大きく認知症介護には不可欠なのです。

 この訓練を通して、地域密着であるグループホームを運営する事業所並びにそこに働く職員さん達の意識改革と災害に対する意識の啓蒙に役立ってくれた事と思います。

写真には、太陽の家で行われた防災訓練の模様です。そして、この訓練にお忙しい中、急きょご協力いただきました民生委員の玉田様に心より感謝申し上げます。また、この訓練の模様を三重県の市民の皆様へ報道をつうじて告知して頂いた三重テレビのスタッフの皆様、ありがとうございました。

2010/10/12
Never Show your pain!

先日、仕事先のフランス人との話の中で登場した言葉が表題の通りの言葉です。つまり「痛みを見せないこと!」と直訳すればなる言葉ですが、この言葉だけでは、何のことやらサッパリ分からないと思うので説明します。

この日曜日の直射日光の厳しい、久しぶりの夏日のような日。僕は、ある仕事を実施していました。このフランス人男性と共に、汗を流して必死になって仕事をしていたのですが、その時に彼は、暑さを物ともせず、涼しげな顔をして業務を遂行していたのです。そういう私はと言えば、汗の為にネクタイを締めたカッターシャツは汗でべったり。着ていたスーツの上着を脱いで、ただひたすら汗を拭くばかりの状態でした。走り回った結果という状況下で、汗は飛び散り、意気も上がる中、彼はなんともないような涼しげな顔をして立っています。僕は不思議に思い聞きました。

「君は暑くないの・・・?」すると彼は

「暑いよ!」と何とも無いように平然と答えるのでした。それで、彼に次に汗はかかないのか?とたずねると

「かくさ!」と、またまた飄々とした顔をして答えて、それでも平然と立ち尽くすのでした。そんな僕は、何で?という疑問ばかりが浮かんできて、平然としている彼を見つめて、更に踏み込んで聞きました。すると彼は

「 Never show your pain! さ !」と言うのです。つまりは、自分の痛みを見せないことが美学だと言うのです。それを聞いて、私よりも若いくせに・・・と腹立ち、負けて入られないと濡れたカッターシャツの上に、上着をはおり、平然と嘯くように横に黙って立ちました。意地というか、プライドというか、他人に弱みを見せないことが、彼の言う男の美学なんでしょう。一本取られたと言う気分で恥ずかしかったことが印象に残りました。

2010/10/5
お久しぶり!!!と、妙に懐かしく、ホッとする気持ち。

先週の土曜日から、ずっと太陽の家には顔を出さずに他の仕事で手一杯の状態で今日にいたっている。この仕事は、僕が一年を通して一番待ち焦がれ、楽しみにしてきた仕事である。一週間から10日間は太陽の家を空けることとなるが、この仕事のおかげで僕のストレスを一気に開放することが出来ていると言っても過言ではない。以前は、我輩の女房様にも三行半を下されるように起こられ続け、最近では諦めて何も言わなくなった。そんな仕事が今の僕の仕事である。時々、このブログででも紹介しているように、副業としてビッグレースの中で通訳を務めているのであるが、僕の場合は通訳兼コーディネーターという肩書きで運営の全ての面で助言と手助けを行っている。

 まあ、そんな仕事の内容はともかく、今日は月の支払いが必要で、一時、勤務中に太陽の家に戻らせてもらった。帰ってくるなり、いつもの爺さん婆さんをみて、今回は非常に懐かしい気持ちでいっぱいとなった。毎年、この時期は長い間太陽の家を空けることが多いが、今までこんな気持ちにはなったことが無い。(と言うと、非常に失礼な言い方であるが・・・そんな悪い意味ではないのでご理解いただきたい) その時の気持ちを説明すれば、 妙にホッとする気持ち。つまり、心が落ち着くのである。外の職場で限界を超えた緊張の連続の中に身をおいている時と、其の正反対の環境の太陽の家に、心のゆとりを取り戻したような気持ちになったのである。

 これは、僕が成長したとか、この高齢者の介護の事業にとっぷりとつかり始めたことによる安堵感ではない。太陽の家の雰囲気自体が変化しているのである。利用者の皆さんの職員に対する信頼感、職員の利用者の皆さんへの期待感と充実感が、独特な安定した雰囲気をかもし出しているからだと思う。決して、昨年までの太陽の家が不安定であったとは言わないが、今の太陽の家の雰囲気は、職員全体がまとまり、それなりに充実したケアを実践できていることの証ではないかと思えるのである。

ほんの数時間、あまり長くは関わることは出来なかったが、それでも、居心地の良さは何とも言えない暖か穴物を感じた。そして、利用者の皆さんの目も、その点を物語っていた。時として、トップがフラフラと無責任にも、職場から遠く離れることも職員さんにとっては、いい経験となるのかもしれない。ひょっとすると僕なんか必要ない!とまで言われそうである・・・・はははは

2010/10/4
タンザニアから帰国した友人

僕の通訳仲間の男の子が、つい先だってタンザニアへの海外青年協力隊から戻ってきた。今日、久しぶりに彼と再会してタンザニアと言う国の情勢について話を聞いた。彼は海外協力隊の一員としてタンザニアに送られ、現地で飲料水のろ過を専門に活動してきたそうである。アフリカのどのあたりにタンザニアと言う国が位置するのか、それさえも知らない国に赴き、色々な社会協力を行ってきた彼の説によると、やはり貧富の差が激しく、住民の大半は貧困にあえぐ人々であるようだ。そして、なにしろ飲料水が汚い。汚染されていると言うより、くみ出した水でさえ汲み置きしておいても透明にならない。そんな汚れた水を飲料水として使い、調理に利用しているらしい。また、住民の多くは職業にあぶれており、毎日、何もすることも無く、国連や世界各国のNGOの団体からの施しを待って暮らしているらしい。

 彼は、タンザニアの国で流れる時間の感覚の違いを強調していた。日本や欧米諸国のような時間に終われるような生活は一切ないそうで、だから、尚のこと、物事の進行が遅いこともあって、経済も豊かに発展しないそうである。今日も、私は日曜日であるのに、雨が激しく降っている中でも仕事をしていた。ここのところ、太陽の家の仕事をやりつつ、副業の通訳の業務も忙しく、休み無しで働いている。今週末のF-1日本GP終了までは、通しで仕事をすることとなる。タンザニアでは、このようなスケジュールで、仕事に没頭することも無いのだろう。彼は、そんなタンザニアの生活リズムと風習が良いとか悪いとかは言わず、そのような生活の仕方も有り!と言う表現をしていた。

 グループホームでもデイサービスでも、お年寄りの生活のリズムはタンザニアのごとく、スローペースでゆったりと流れていくべきなのではあるが、やはり、そこは日本人。歳を取ってもなすべきことは、すばやくやり遂げないければ、利用者の皆さんの満足感は得にくいのかもしれない。と考えながら、やはり日本人である自分たちの体に生活のテンポやリズムは染み付いてしまっているのだろう。おそらくタンザニアのような時間が、日本の社会において一般的になったとしても、多くの人たちはイライラがつのり、精神的に大きな負担を感じることだろうと思う。

 そういえば、彼を少し紹介すれば、イタリア語、英語を話すバイリンガルの青年であり、とても思いやり深い好青年である。そして、今はスワヒリ語も習得したそうで、F-1の通訳でスワヒリ語を話すスタッフは初めてのことで、非常に面白いね!と笑っていたのである。F-1と言えば、世界のトップと言われるハイソサエティーな人々の集まりで、貧困とはおおよそ縁遠い人たちばかり。と言うより、「リッチ!」な人たちばかりで、(観客も当然、モータースポーツの観戦料としては一番高額な料金を支払って見に来る人々だか)そんな人々の中で、スワヒリ語はまったく通訳する機会のない言語だからだ。

 まア、そんな彼の面白いところは、現地に行けば現地人と同じものを食い、同じ生活を売ることに徹する姿勢である。同じ水を飲み、おなじ食事を食べ、それでいて病気にもならないし、下痢もしない。まったく、どこに行っても土着民のごとく順応してしまう。非常に順応性の高い、と言うより、なんでもかんでも好奇心が旺盛で、根っからの自然児のようなタフな人間なのかもしれない。

 しかし、通訳を遣っている連中と言うのは、変わった人間が多い。どこか変な奴らなのである。頭のピンが二三本ぬけているような感性、他人と交わらなくても単独で行動してしまうバイタリティーや行動力。(簡単に言ってしまえば、自己中心的であり自信家と言うことかもしれないが・・・)。そう言えば、僕のもう一人の友人であるフランス語の通訳など、会うたびにジョークの応酬。常に新しいジョークを仕入れて、其のジョークを言うことが好きな奴も居る。大体から、フレンチやイタリアンなどの通訳って、一般的な英語の通訳よりも希少性があり、通訳としても数が少ない。私同様、英語の通訳が多い中で、イタリアンやフレンチだから、其の変人ぶりは創造できると思う。

 この仕事について、30数年。この間にいろいろな通訳と会って、いろいろな会話をしてきたが、自分の好きなことをやって生活を維持しているのは、ある意味、とても幸せなことかもしれない。前述のタンザニアの人々には、満足な教育も受ける機会も無い人々も多く、その為に貧困からの脱却もままならず、苦しい生活に明け暮れてる人も居る。マイナスのスパイラルに入り込んでしまうと、そこから這い出すには非常に大きなエネルギーは必要である。タンザニアだけではなく、この日本にも、よく見つめなおしてみれば貧困生活空の脱却に苦労している人も居る。何が不足して、どのような支援が必要なのか・・・社会貢献を行うには、まず多面的な視点を持って社会を見つめなおすことが重要である。我々の行っている高齢者福祉も同様、多面的視点を持って高齢者を見守らないと、本当に高齢者の求めるニーズは読み取れないような気がする。

 


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