今日は、デイサービスの施設内研修を行った。
研修テーマは、表題のとおりコミュニケーションについて行った。
認知症の人とのコミュニケーションは簡単なようで難しい。
どうしても相手を軽く、無能の人として対応してしまいがち。
もちろんこちら側には悪意はない。
また、相手を馬鹿にしているわけでもないが、
やはり分かっているけど、なぜかしらそうなってしまうようだ。
話は変わるが、昨日の僕のブログに関して、ある職員と話をした。
僕がブログに張り付けたアベマリアの曲についてだが、
その職員の感じた印象は「暗い曲」だったようだ。(笑)
確かに暗い曲に聞こえる。その理由に葬儀の会場などで聴くイメージだからだそうだ。
人は自分の経験や好みによって、自由に物事を理解し、自分の中に取り込んでいく。
僕にとってはお気に入りの一曲も、他の人にはそうでない場合もある。
今日のコミュニケーションの研修の中で、伝えたかったことがこの事実である。
言い換えれば、人は他者との会話の中で、結構頻繁に一方通行の会話を無意識に行っている。
相手の理解の度合いを計りながら、受け手の動作と反応を見ながら
会話を楽しんでいるのかもしれない。
そして、そんな抽象的な言葉のやり取りを介して、そこに言葉と同時に
相手に対する視線、態度や姿勢を添えて和ませたり、怒らせたり、嘆かせたりしている。
認知症の人も、一部の不便さを抱えながら生きている。
私たちケアを担う者が、認知症を適切に学び、認知症の人の不便と感じる事柄を知ることで
認知症の人へのコミュニケーションが、単なる言葉の羅列ではなく
その人の不安感情を和らげ、落ち着かせることに期待したい。
どうせ記憶障害によって、会話すら覚えていないから何を話しても平気ではなく
健常者同様。配慮無い発言は認知症の人の心に深く傷を残してしまうこと。
そうしないために、相手の思い、経験、人権を尊重し
相手を「一人の人」として受容することで
認知症の人が説明のしょうの無い不安感に呑みこまれることなく
生き続ける事が出来るのではないか・・・と言う話を伝えた研修を行ったつもりだ。
だからというわけではないが、認知症の人として、記憶障害を持つ人だから
その場しのぎの嘘でごまかすことは、決して良い介護技術とは言えない。
高齢者介護として、身体介護だけがプロフェッショナルの仕事とは言えない。
肉体的、精神的にも、安定した心で生きることができる支援としなければいけない。
まあ、これも理屈の一つですが、それでも、認知症の人をしっかりと見つめ
そこで不足している精神力、肉体の衰え、社会性の喪失に際し
出来ない事への支援を実践していると評価できるのではないでしょうか・・・
I would like to present one music,called adagio de la sonate pathetique.
you might find an other sad music again.
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