太平洋戦争を僕は知らない世代である。
終戦から八年後に生まれているからだが
それでも、今のように贅沢な時代ではなかった。
戦後の復興最中であり、まだまだ日本国民は裕福な生活とは言えない時代でもあった。
繁華街では白装束で軍帽をかぶり、松葉杖で支えた身体で募金を募る人もいた。
母が、そんな人たちを『傷痍軍人』と呼び、戦争で怪我をして生活苦のために
街頭で 金銭の施しを求めていた。
戦時中ほどではなかったものの、田舎の百姓の子供のおやつといえば
サツマイモや米菓子やトウモロコシ等の畑でとれるものだけ。
生クリームたっぷりのクリームパフなんて食べたことはなかった。
チョコレートだって、上等な砂糖菓子なんて口には入らなかった。
子供たちは、多かれ少なかれ皆、継ぎはぎのあたった服を着ていた。
毎日、同じ服を着て、袖のところで鼻をぬぐうから、袖口が光っていた。
ゲーム機もないから、遊び道具は自分たち手作り。
木を削ってピストルに似たおもちゃを作り、戦争ごっこをやった。
そのころ流行っていた漫画の主人公の絵が入ったメンコは
田舎では高級な遊び道具で、僕たちは牛乳の厚紙の蓋をつかって
メンコ遊びをしていた。
戦後八年も、まだまだ日本の社会は発展途上国の様相であり
急激に社会が発展し始めるには、終戦から二〇年の年月がかかった。
本当に貧乏で、何もない不便な時代だったが
それでも、子供時代は楽しかった。
皆が共に貧乏だから、貧乏でも何もなくても恥ずかしくなかった。
テレビも、冷蔵庫も、車なんてめっそうもない。
そんな時代を過ごして、六〇数年がたって
自分の生活も随分と近代的になり、裕福になった。
でも、まだ何かを今でも求め、探して生きている。
人間てのは、どこまで行っても欲深いものだ。
この欲深さと併せて、生きることへの執着も果てしなく続く。
残念ながら、国を挙げて新型コロナウイルス感染拡大に対し
非常事態宣言が発出されたころ
僕の感覚としては、まだまだ遠い別次元の出来事のような感覚が強かった。
実際に三重県での感染者数も少なく
其れこそ、住んでいる社会が違う!くらいの思いでもあった。
ところが、7月に入って、鈴鹿市から一人の感染者が出て
8月に入ると、三重県の全地域に感染が拡大し始め
今日もまた、鈴鹿市から感染者が数名でた。
政府は今の現状を第二波と位置付けていないが
現状は、当初の山より大きく、広範囲に広がっている。
感染情報として入手できる内容は、それほど多くはないものの
直感的に自分たちのエリアに近く、ゆっくりと忍び寄ってきているように感じる。
発熱や咳の症状もなく、無表情で近くまで。
また、いたる所で保菌者が存z内しているようだ。
どこの誰にでも、COVID-19感染者の可能性があり、
ちょっとした油断が、即感染に結び付いてしまいそうである。
神経質すぎるほどの手洗いと消毒を意識しながらも
趣旨の洗浄と消毒なくモノを食べたりして
この油断が、コロナ感染のキーワードであり
もうしばらくは神経質すぎるくらい用心して生活を継続する必要があると考えている。
我々が感染することで、施設利用者 を巻き込んでしまう。
常に神経を張り巡らせ、要人に用心を重ねることが
唯一、コロナ感染症から自分を守ることが出来ると考えている。